新しい概念を日本語で揉んで外貨を稼ぐ
有用なコンセプトは「書くこと」で伝播します。
「エレクトロニックコマースはインターネット上で成立する商行為である」と初めて言い切ったのはたぶん私なのではないかと思っています。1995年の1月あたりに、当時の米国商務省の資料などを漁って、月刊「コンピュートピア」という雑誌に書いた記憶があります。
当時、ECに関する概念は日本では漠としており、定義もへったくれもなかった状況なので、関係するインターネット上の文献などを精査しながら、「旧来のVANを使う電子的な処理はECとは言い難い」などと述べつつ、上のくだりに落ち着きました。
「クリック&モルタル」を日本で一番最初に活字メディアで使ったのも、たぶん私だったと記憶しています。これは当時米国へEC関連の視察に何度も出かけていたなかで、現地で話を聞いた金融関係者から生で伝えられたものを記事で使わせていただいたので、メディア経由で情報を仕入れていた人よりは早かったはずです。
書き物の商売というのは、人が言っていないことを日本でいの一番に言うことに異常に執念を燃やすところがあり、当時はそのように新概念に接するたびに、「おぉこれはネタになる」と興奮してました。
けれども、言うまでもなく、エラいのは、日本で一番最初に言い出すことではなく、それを実現し、具体的に事業のなかで有意義に活用することです。
1999年から2000年にかけてクリック&モルタル論議が一巡した後で、いくつかの企業は実際にクリック&モルタル戦略を実施し始めました。
1年程度の期間でもっとも完成度の高いクリック&モルタルを実現した企業のなかにソフマップがあります。2002年の半ばぐらいに、コンパックのサーバー製品マーケティングツール(事例もの)のお仕事をいただき、ソフマップに取材に伺いました。そのなかで、同社が当時すでにクリック&モルタルに注力しているということを知り、「おぉ」と思いました。
店舗チャネル、コールセンター、ウェブチャネルを一元化し、顧客がどのチャネルを利用しても、個々の店舗の在庫がわかり、最短で商品を受け取ることができる体制を築きつつあったとのことです。
自分が99年頃に記事でクリック&モルタルとはこうでなければならない、このへんが課題である、と書いたことが、2002年になって取材先の担当者様の口から自分の目の前で、現実に事業においてクリティカル性をもっている事柄であると語られることは、かなりぞくぞくする体験ではあります。マジ感激しますね。(その後のソフマップについてここで突っ込むのは野暮というものでしょう。)
そういうわけで、ある新しい概念を日本で最初に書いたり口にしたりすることがエラいということはなくて、実際にやることの方がエラい。間違いなくそうだと思います。これは、企業価値に直接的間接的に結びつく事項だけに限定されることかも知れませんが。
その一方で、書くことで新しい概念が関係当事者に伝わるということは依然としてあるわけで、その情報デリバリーには相応の意味があります。日本がグローバルな競争環境下に置かれていることを考えると、有用な概念が日本で紹介されるのは、早ければ早いほどよい。
つい一昨日、「Web 2.0」というものを知りましたが(画像の方)、これなどはソースになっている米国のブログを見ると、9月末ぐらいの日付になっており、ほとんどタイムラグなく日本で関係当事者の間に伝播しています。日本は本来この手の新しいものの受容、吸収、咀嚼に熱心な国であり、それが産業における工夫を生み、現在の、世界的にみても非常の高品質なサービス、製品につながっているわけで、インターネットがあることでその受容や吸収にスピードがつくのは国際競争力維持上非常に意味があります。
したがって、日本で一番最初に知った人が、いちはやくブログでもって書き、紹介することは大いに奨励されなければなりません。
インターネットを一種のナレッジマネジメント装置と考えるとおもしろいですね。日本語で読み書きでき、日本語で考える人のための専用のナレッジマネジメント装置が、日本人には用意されているわけです。誰かが新しい概念を紹介し、ネタになり、経営者の方の頭などにインプットされ、事業として形になったり、政府の行革論議のなかで知らぬ間にテーマになっていたり、等々が起こります(殴られそうですが、2000年に当時の通産省の金融系サービスの報告書書きをやった時に、別途提出させていただいた提言書のなかでマジで「日本はIT立国せなあかん」という趣旨のことを書きました)。
国際競争力維持という観点では、この日本語による日本人全員によるナレッジマネジメント環境で切磋琢磨された概念(memeということです)は直接的間接的に、日本で比較優位を持っている産業でよりよく活用され、最終的には外貨を獲得しうる製品やサービスとなって海外に送り出されることになると思います。やや途中が乱暴な記述ですが。
その際に、何を考えなければならないかというと、日本語で切磋琢磨されたものは、「日本語という器の中に盛られた製品やサービス」で海外に提供される限りは、多数の顧客を勝ち得ないわけですね。どうやったって日本語がわかる人か、それに準じる人たちにしか買ってもらえない。
余談ですが、先日仕事でボストン近郊のレキシントンという町に寄った際に(メインストリートが数百メートルぐらいの小さな町です)、店内がガラスで見えるようになっている書店のなかで、米国人の中学生ぐらいとおぼしき男女複数が日本の日本語による漫画を熱心に立ち読みしていましたね。かなりぐっとくる光景です。
これは例外として、やはり日本語を器としている限りは大多数の顧客に入っていきません。となると、言語に依存しない何かが海外市場で展開されなければならない。
この循環をより活性化させ、加速化させる仕組みやサービスや事業をやる人は、そこそこ儲かるでしょうね。概念→製品洗練化ギャップの多国間アービトラージ(^^;