「空気を読まない中国人」という指摘
中村正人氏の「レジャー超大国、中国(5)~空気を読まない中国人、空気しか読めない日本人」を興味深く読みました。
以前、山本七平の「『空気』の研究」について触れた後で、「2ちゃんねるが厄介な『空気』を追い払った」史観を投稿したところ、大騒ぎになったことがあります。
「空気」は日本人が作るコミュニティの成り立ちと、共有されている価値観を読み解くキーワードであることに間違いはありません。
山本七平に先立って丸山真男も「日本の思想」において、日本の専門家は往々にしてタコツボ的コミュニティを作りがちであるとし、そこに「空気」のようなものがあると指摘しています。
両氏ともにそれを指摘する背景には、日本がなぜあのような戦争に国家総動員体制で邁進していったのかという深い反省があります。
個人的には、こうした「空気」は、日本企業全般に見られる意思決定の遅さにも関わっているような気がします。「空気を読む」ことが経営陣やそれを取り巻く中間管理層でなされているために、どうしても意思決定が遅くなって、タイミングを逃してしまう。また、本来的に企業価値を高める方策を絞り込めずに、企業活動が玉虫色のものになってしまう、ということはあると思います。日本企業の時価総額の低さにはそれが関係しているのではないか、という疑念すら生じてきます。
中村氏のコラムに戻ると、中国人が空気を読まないという指摘は、あぁなるほどそうなのかもな、という風に受け止めました。
「空気を読む」「読まない」は、おそらく、日本語の特質に関係しているからです(あ、ここで冷泉彰彦の「『関係の空気』『場の空気』」(講談社)があることを思い出しました。これも空気関連必読書です)。
日本語の成り立ちそのものが、それを話し、それで考える日本人(および日本語を駆使する人たち)に対して、空気を読んだり読まなかったりすることを要求する。おそらくは、そこが根源ではないかと。
日本語は、日本の文化の精妙さの根源であるようにも思うし、日本の製造業が作る製品の品質の高さを実現している概念的な基盤(高品質を支えるクライテリアのコンテナ)であるようにも思います。
けれども、空気を読む読まないに関して言うと、組織活動の求心力を弱める方向に働く。海外勢と競争した時に、どうしても爬行蛇行のような形になってしまう(第二次世界大戦のもろもろの戦略などにその典型があります)。
どうしたらいいものでしょうか?