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株式会社インフラコモンズ代表取締役の今泉大輔が、現在進行形で取り組んでいるコンシューマ向けITサービス、バイオマス燃料取引の他、これまで関わってきたデータ経営、海外起業、イノベーション、再エネなどの話題について書いて行きます。

「2ちゃんねるが厄介な『空気』を追い払った」史観

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山本七平氏の「空気」の考え方を再び取り上げます。

日本では様々な状況において、なんとなくその集団におけるものの見方の趨勢が決まり、もって意思決定に近いものがなされ、それで物事が進んでいくのですが、そこには「意思決定をした当の本人」は存在せず、従って、その意思決定に責任を持つ人がおらず、物事がうまく終始した時はよいのだけれども、何かをしくじってしまった場合に、責任を持つ人がいない状態に陥る。それはやはりヘンではないか?では何がヘンなのか?日本では「空気」が意思決定するからではないか?そうだそうなのだ、というのが山本七平氏の了解の仕方です。

彼がこのような思考をするに至った背景には、彼自身も砲兵として従軍した、太平洋戦争の顛末があります。未だに真の戦争責任は誰にあり、誰が裁かれるべきで、誰がそうでなかったか、といったところで答えが出にくい状況にあるというのは、おそらくは、山本七平氏がにらんだように、「空気」による意思決定の連鎖があったのではないかと私も推察します。

最近では、日銀の福井総裁が株式および村上ファンドへの投資によって1,000万円単位の利益が出たことが明らかになった際に、様々な報道メディアによって「福井総裁は辞任やむなし」という論調が作り上げられました。あれが「空気」が醸成されるパターンの好例だったと思います。
彼は法を犯していたわけではなく、日銀の内規を破っていたわけではなく、福井俊彦氏個人として、自分の金融資産の一部をリスク商品に投資していただけなのに、そしてそれがたまたま利益を生んだだけなのに、なぜそれで辞めなければならないのか?素朴に考えると、彼にはまったく辞める理由がありませんでした。

けれども、新聞、週刊誌、テレビのニュースやワイドショーなどは、日を追うごとに「辞任必至か?」という論調に傾いていき、それにあおられる格好で、テレビの記者のマイクを向けられた各政党の党首なども、「辞めるか辞めないかは本人の決断だ」などと至極曖昧に「辞任した方がいいんじゃないの?」というニュアンスをにじませた発言をするしで、なんとなく福井総裁は辞任して当然ではないかという「空気」が醸成されていきました。
この頃、土曜朝のニュースまとめ番組をみていて、ある党の党首が、「もう辞めて当然ですよね。こうなったら」という「空気」煽られまくりの発言をしていて、おまけにその後でぺろっと舌を出しそうな表情になったのを見つけてしまいましたが、ことほど左様に「空気」の尻馬に乗っかる人が出てきたりします。

この時、非常に興味深かったのは、ブログなどインターネット全般から受ける印象はかなり冷めていたということです。
以前であれば、われわれ個人によって盛り上がる世論は、どの新聞を見ても、どのニュース番組を見ても「福井総裁辞任やむなし」と言っている状況では、「やっぱそうだよな」「そうだそうだ」となったものですが、現在はそうでない状況ができているような気がします。

われわれはもはやマスメディアが見るような大衆ではないし、ある広告代理店が命名した分衆でもない。一人ひとりが、考える時には考えるし、反応したくない時には反応しない。投稿する人は投稿するし、コメントを書く人は書く。2chでスレを立てる人は立てて、レスをつけるひとはつける。

そういう中で、報道マスメディアによる、ある方向への誘導にはあまり乗らなくなり、むしろ、インターネット上で個人の考えの交流のなかから自然発生的に起こる潮流の方に、リアリティを感じるようになっているのではないかと思います。(その潮流が山本七平が言っていた「空気」なのかどうか、自分は今のところはわかりません。)

山本七平氏は、日本の報道系メディアは、その時々の社会の重要な問題に関して「空気」を醸成するように動き、その「空気」が多くの場合は誤った方向への誘導であり、その誘導に大多数の日本の社会の人たちが乗りやすいということを、大いに問題だと考えていました。
けれども現在では、彼が問題視していたその状況はかなり消え去りつつあるようです。

自分はあまり2chの書き込みに参加したクチではないですが、おそらくは、2chが果した役割というのは小さくないと思い始めています。山本七平氏の「水=通常性の研究」(文芸春秋に連載された「『空気』の研究」の続編)に次のような一節があります。

-Quote-
 ただ問題は、この秩序を維持しようとするなら、すべての集団は「劇場の如き閉鎖性」をもたねばならず、従って集団は閉鎖集団となり、そして全日本をこの秩序でおおうつもりなら、必然的に鎖国とならざるを得ないという点である。鎖国は最近ではいろいろと論じられているが、その最大の眼目は、情報統制であり、この点では現在の日本と、基本的に差はない。
 中略
 このまま行けば、日本はさまざまな閉鎖集団が統合された形で、外部の情報を自動的に排除する形になる、いわばその集団内の「演劇」に支障なき形に改変された情報しか伝えられず、そうしなければ秩序が保てない世界になって行く 後略
-Unquote-

前後の文脈を補うと、日本の従来の状況では、真実を隠蔽する力が働き、その隠蔽に社会の人が参画することによって、ある種の秩序が保たれていたというなかで、「従って集団は閉鎖集団となり…」と続きます。
ここで自分が着目するのは、「情報統制」という言葉です。そこには情報統制と彼が名指すような状況があった。その情報統制は、情報の流れを司る人たちによってなされていた。多くの日本の人はそうした統制された情報を読み、それで世界を把握していた…。もちろん現実はそんなに単純なものではなく、もっと複合していて、一筋縄では理解しえない状況もあったと思いますが、彼が言うそうした傾向はあったものと、私も考えます。

そうして、そのような「情報統制」が長らく土壌としてあったなかで、2ちゃんねるが忽然と登場した。
そこでは、「統制」されていた内容もそうでなかった内容も、ありとあらゆることが書かれる。それによって、閉鎖的なところに風穴が開き、「統制」されていた内容に「水」(山本七平用語)が差され、「情報統制」が自然と無効化していく。言い換えれば、報道マスコミによって大きな影響を受けてきたわれわれの世界把握が、より多様性を持つようになった。
そういうことが90年代後半に起こったのではないか?と思うわけです。山本七平氏が憂慮していた「空気」は2ちゃんねるが粉砕した。そういう史観に立つと、少しおもしろいと思いませんか?

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