エコでサステナブルでかっこいい近未来の日本の中間層モデル
最近は[pepoz]の準備が優先しているので、以前のように湯船に使って日経を隅から隅まで読むということができなくなっていますが、自分としては、マクロな経済のトレンド感を次のように組み立てています。
日本の総世帯数が約5,000万。
米国の総世帯数が約1億1,000万。
欧州主要5カ国(英、独、仏、伊、西)でざっくり推計すると約1億。
東アジアの主要4カ国・地域(韓国、台湾、香港、シンガポール)でざっくり推計すると約4,000万。
合計3億世帯。
2000年以前はこの3億世帯が中間層以上の生活を営んでいました。
非常にざっくりした捉え方で申し訳ないですが、スケール感を得るということで記していきます。(この種のざっくり感は外資のクライアント様における世界のお金の動き方の把握アプローチから学びました)
中間層世帯の生活のモデルは、60年代~70年代の米国のホームドラマで描かれていたそれです。でかい冷蔵庫とキッチンと犬と子どもと仲のよいお父さんお母さん、といったところ。
高度成長期の日本でもそのモデル的な生活を実現すべく、みんなががんばって、80年代にキャッチアップしました。欧州主要5カ国でも同じ時期に同じようなことが起こっていたはずです(第二次世界大戦からの復興とその後の経済成長)。
そして東アジア主要4カ国・地域も90年代には同じレベルに達しました。
色んなものを捨象すると、これら3億の世帯においては、2000年に入るまでに、中間層以上の生活が営めるようになったということができます。
世界の天然資源、農産物、海産物はこれら3億の世帯の生活水準を中間層以上のところで維持するには十分だったと言えます。
けれども、周知のように、2000年以降になると国家レベルで富を蓄積してきたBRICs4カ国において、中間層以上の生活を目指す、あるいは実現できる世帯が増え始め、そこにVISTA5カ国や東欧などが加わってきています。
大雑把な数字で申し訳ないですが、世界では約13億世帯ぐらいが、米国の60年代~70年代のテレビドラマに描かれたような中間層の生活を営もうとしています。うち2割ぐらいはすでに中間層の水準に達しているのではないでしょうか。
そうすると、天然資源、農産物、海産物が足りなくなる。足りなければ値が上がる。そこに投資先を見つけられずにいる世界のマネーも流れ込んで相場が形成される。現在の原油、鉄、小麦、米、希少金属などの値が高騰している背景はそんなところではないかと思います。
言うまでもなく、中間層の生活を維持するには非常に多くのモノとエネルギーと農産物・海産物が必要です(あとは文化も)。住宅、白物家電、自動車、情報家電、服飾、三度三度のおいしい食事…。これらを支える企業活動もやはり多くのモノ、エネルギー、天然資源などを必要とします。オフィスビル、工場、物流などなど。
もちろん、上述の3億の中間層以上の世帯を営む人たちが、後に続く13億の世帯の人たちに向かって「あなたがたは中間層以上の生活を目指してはいけない」と言うことはできません。(当たり前ですが)
それよりも先に、13億世帯の人たちは、毎日勤勉に働いて、自らの手でそうした生活を勝ち取ってしまうでしょう。
結果として、天然資源、農産物、海産物がだんだんと希少財になっていく。
われわれは(口はばったいですが)、この先にある、生きられる未来を、言い換えれば、生活可能なごく一般的な世帯のモデルを、考えていく必要があるように思います。
本来的に資源が乏しいということを勘案すれば、日本が率先して、そうしたモデル的な2010年代以降の中間層の生活というものを構築していかなければならないのでしょうか。そのように考えたいところです。
そうして、他の国々にも、「おぉー、日本の中間層モデル、エコでサステナブルでかっこいいー!」と羨望の目で見られるようなモデルとして開示していけばいいのではないか。
個人的に、格差に着目した論点からは、この種の未来構築の原動力がいっさい出てこないように思っています。そういう議論からはさっさと降りて、こっちのことを考えた方がいいです。
中田ヤスタカに無理やり結びつけると、彼が近未来の価値観を作り出そうとしている行為は、60年代-70年代米国中間層生活モデルに代替できる”エコでサステナブルでかっこいい的な中間層生活モデル”の中核になりうる価値観の模索である…そんな風に思えてなりません。
その種の、未来をデザインしていくアプローチの方がずっと生産的だと思います。