われわれはもう後戻りできないところまで来ている
タイトルは大げさですね。歴史は不可逆だというごく当たり前のことを言っているだけです。BGMは最近届いたばっかのNils Petter Molvaer「Streamer」。渋すぎる。
95年後半から97年前半ぐらいまで、津田優さんの日記リンクスに連なってWeb日記を書いていた(確か30番台。美輪山サスケ)頃と比較すると、現在のブログが作り上げている状況は、明らかに性格が異なります。
何が違うのか。
第一に、書いている人の数がぜんぜん分厚い。先日の河野武さんの集計によると224万ブログ。以前に私が「ブログファン」のデータをカウントしたところでは120万。96年前半のWeb日記会はせいぜい5,000人弱のコミュニティでしたから、ケタが3つは違いますね。
量は質に転化する…。しないか。ま、どっちだっていいわけですが、光景はまったく異なっています。
当時は学生さんか、編集者またはライターか、パソ通から入ってきた人か、SFの人がほとんどだったところ、現在では様々な分野のプロフェッショナルからカレーのスペシャリスト姉妹まで、ポジショニングの豊穣の海という感じです。
最近では、賛否両論あるでしょうが、「文化レベルが高すぎます」を書かれている方が、非常に華麗なテキストライティングを披露していらっしゃいます。もと詩を書いていた自分からすると、彼の言語感覚には、第一級の現代詩人になぞらえてもいいcontrolled drive感があると思います。ただ矛先の向け方については一考の余地があるかも。
そうした人も輩出するブログスフィアは、Web日記の空間と比べると、やはり本質的に異なるものである。何が違うのか?
当時はランキングはあった。順位の競争もあった。やっている人同士でオフ会が開かれた。仲良くなったり仲違いがあったりした。それは全部いまと変わりません。リンクされたりしてみたり。TBこそないものの、コメントみたいなのを残したり、気になる相手の一節を引用するということも、よく行われていました。
また、Web日記の動きが雑誌の記事に書かれるということもたくさん行われていた。ちょうど現在の岡田記者のような目線で書いているライターもいたように記憶しています。
けれども何かが違う。
光景以外に、何か違っているものがあるだろうか?
それはたぶん、これをお読みになっているあなたが95~96年頃から現在に至るまでに経た変化。そして、私が95年~96年頃から現在に至るまでに経た変化、というものに関係していると思います。それは防衛庁がなくなってミッドタウンが建ったという、形の上での変化とはまったく異なるものです。
たぶんそれは、リテラシーに関係していると思う。
あの頃のリテラシーと、現在のリテラシーとでは、モノが違うという感じがしませんか?
当時は、インターネットにひとりでつなげられて、少し検索ができて、少しHTMLが書けて、FTPやEudoraやgifの透明化ができれば、そこそこリテラシーがあると言えた。
けれども現在のわれわれが普通にリテラシーだと考えているものは、質もレベルもまったく異なっています。
当時は、原野の中で自分の考えを叫ぶようなテキストであっても、Web日記の1日分として成立していました。
もちろん現在でもそれは投稿になりうる。
けれども、現在のブログの書き手は、それがこの空間ではほとんど意味を成さないものであることをよく知っています。
ブログは書かれ、読まれます。時々はコメントをもらい、TBを送ったり送られたりします。Googleが拾ってくれて、まれにGoogle Newsの見出し群に混じったりします。
そうした一連のメカニズムのなかで、書き手は何に関心を持っているかというと、このいわく言い難いネットワーク環境のなかで、自分もフィードバックを受けつつ、自分がフィードバックを与える立場にもあるという、複合的な役割をよく認識しています。
どのブロガーもそのことをよくわかっている。95~96年当時のように、誰もひとりよがりになったりはしない。いわば、ネットワーク内存在としての自分というものを、その等身大のサイズを、よく認識している。
そこがまったく違うと思うのです。
それは、この10年で、社会的に獲得されたリテラシーだと思います。集合的なリテラシー。気恥ずかしくなければ、進化と言ってもいいかも知れない。
あの頃誰もが持っていなかったリテラシーを、現在の自分たちは普通に持っている。
この不思議な感覚。
リテラシーがなかった頃のことを「へぇー、あんな頃もあったんだ」と遠くに見やる、このポジション。
ほんとに不思議ですねぇ。