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株式会社インフラコモンズ代表取締役の今泉大輔が、現在進行形で取り組んでいるコンシューマ向けITサービス、バイオマス燃料取引の他、これまで関わってきたデータ経営、海外起業、イノベーション、再エネなどの話題について書いて行きます。

Bjork「Dancer in the Dark」のMortality

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米国には、自分のつたない米文学の知識で言えば、「理解しがたいものが棲む森」というテーマがあります。典型はホーソーンの「緋文字」にあります。

非常に個人的な解釈になりますが、メイフラワー号の渡航をきっかけとして、何回かにわけてイギリスからやってきたピューリタンたちは、やはりヨーロッパ人であって、ヨーロッパ的な”闇”を持っていたと思っています。その闇は、ミシュレが「魔女」で描いたところの、キリスト教化されるはるか以前の、ある種の交感方法によってしかなじむことができなかった、深くて暗い森にあったものと同じです。日本人が、森の中には神がいると感じて、森と調和したのに対して、おそらくヨーロッパにおいては、森の中には何かわけがわからないものがいると感じて、特に男は”龍をつかまえに行く”時ぐらいしか近づかなかった。けれども一部の女性は、たぶん体に関係した必要があって、森に分け入って花や実や茎や葉を摘み、その薬効を日常生活に役立てる必要があった。そういった、Aという植物とBという植物をすりつぶしたり煮たりして、”操作的に”対処するなかで、森へのアプローチの仕方を知った。そういうアプローチ方法が習得できていなければ、相変わらず深くて暗くてわけがわからない森であった。そうした存在として、森があったようです。

この森と同じものに、イギリスから渡航したピューリタンたちが接しました。そして相変わらず、わけのわからなさ、暗くて怖い、捉えがたい何かを感じたようです。そのわけのわからなさが、初期の米文学ではホーソーンに描かれていたりする、ということのようです。米国でも魔女狩りに相当する事件がある時期に起こったようですが、そうした森が確か関係していたと記憶しています(違ったかも)。
こうした彼らにとっての森を理解すると、「ツイン・ピークス」がすごくよくわかってきます。一般的な米国人にとって、森は暗くて深くてわけのわからない魔物が棲む空間であり、そこの領域でわけのわからない事件が起こる。。。。

「Dancer in the Dark」のSelmは、おそらく、チェコ・スロバキアから、そうした森の認識を(深層に)かかえて米国にやってきていて、それでもって、米国において「ツイン・ピークス」の事件が起こった町とは山ひとつ隔てた町に住んで働き始めた。

この映画は、Bjorkの、Bjorkによる、Bjorkのための映画という側面がありますから、Selmaは当然ながらBjorkの分身であり、Bjorkの諸作品に見られるところの、ミシュレの「魔女」に描かれたヨーロッパの女性なるものの源流を、しっかりと掬い取って歌うシンガー的特性が、Selmaの中にも滲出しているわけで、事あるごとに、というか、いついかなるときも、Selmaは、そうした欧州の女性として反応する。ものすごくピュアである。イノセントである。無垢である。けれども、ヨーロッパの森と共生してきた女性たちの石のような頑固さがある。その頑固さでもって、息子の目の手術のためのお金を毎週数ドルずつ貯めていく。そして歌う。いつでも歌う。ミシュレが「魔女」で描いた女性のなかに、音楽的な特性を発揮させた例があったかどうか忘れてしまいましたが、「Dancer in the Dark」の中のSelmaは、そうしたヨーロッパ的な頑固で森との共生の術を持った女性に本来的に備わっている音楽の才能を、ごく自然に発揮しているように思われます。そしてそれはすなわち、Bjork自身でもあるわけです。

観終わった印象は、日本の人であれば、おそらく誰もが不意打ちをくらったように、それこそガツンとやられて動けなくなる、といったものだったと思います。
黒い鋼鉄のゴリっとした塊が、微動だにしない意志によってそこに放置されている、それも意図的に。そうした印象があります。めちゃ、モダンアートです。硬い鋼鉄の意志のコンセプチュアルアート。そうした印象を残します。

これは、上述の森とはあまり関係なく、Bjork自身の意図だと解釈すべきです。アーティストとして世界に向き合う時に、あの盲目で夢見がちに歌を歌うSelmaのように無垢でありながら、死の直前であっても、朗々と自然に声高らかに、心の底から歌声が沸き上がってくる、そしてそれは詩でもあるという、そうした歌い手としてのアーティストであるBjork。それが、世界と向き合う際には、自らの生を奪い取る大きな力を感じて、ともすれば自らのあずかり知らないところでそのアーティストとしての命がふさがれてしまう、そうしたぎりぎりのところで表現をしている。そうしたところなのでしょうか。Bjorkの一部のプロモーションビデオには、「mortalだなぁ」と思わせるやつが何点かありますが、そのmortal性が最高度に強まった長いプロモーションビデオがこの映画ではなかったかと思っています。以上、走り書きですが。

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