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株式会社インフラコモンズ代表取締役の今泉大輔が、現在進行形で取り組んでいるコンシューマ向けITサービス、バイオマス燃料取引の他、これまで関わってきたデータ経営、海外起業、イノベーション、再エネなどの話題について書いて行きます。

「イノベーションのジレンマ」やっと読了(末尾追記)

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以前、ある米系経営学雑誌日本版の副編集長だった方(現在の編集長)とさる方とが食事をする席にご相伴させてもらったことがある。彼は「イノベーションのジレンマ」において「破壊的技術」と訳されている"Disruptive Technology"は、本来的には「突発的技術」と訳されるべき文言であり、「破壊的技術」と訳されたがために、日本で語られる際に余計な「破壊」のニュアンスがついてまわって、正確な理解を阻んでいるということをおっしゃっていた。そのときはふーんと思いながら聴いていた。

余計なニュアンスとは「市場を破壊する新しい技術」といったイメージ、「既存のプレイヤーを破壊しつくす得体の知れないニューカマー」といったイメージ、あたりである。

「突発的技術」と置き換えると、「持続的技術」(Sustaining Technology)と対置した場合に、意味的によいコントラストがとれ、著者が言いたかったのはこれかとストンと落ちる。少なくとも、非常に過激な言動をなさっている方だというイメージが薄れる。まぁでも訳語がどちらでも、本をきちんと読んでおれば、理解は文脈によって醸成されるものであるゆえ間違うことはないのだが、私のように粗忽者で全体を読み終わらないうちに各所で使っていたりすると、少し痛い目に遭う。

クリステンセンが本書で主張しているのは、ものすごく大胆に要約すれば、「過去の技術開発の脈絡に基づかず突発的に得られた技術を商品化するにあたっては、既存の主流顧客と既存の社内意思決定メカニズムに拠らない形で資源配分を行い、社内の主流組織からも邪魔されない環境を作って、既存の主流顧客とは別な領域に顧客を求め、失敗を恐れず、むしろ失敗しながら学んでいくなかで、マーケティング姿勢を確立し、市場を作り上げていくのがよい」ということである。

それが既存の市場を「破壊」するような技術であるかどうかは、必ず、誰にとっても、事後にならなければわからないのであり、当然ながら価値が測りかねている社内の当事者たちにとっても、「破壊的か否か」はわかり得ない。それに対して正しく身を処するのは誰にもできない相談なのである。そのへん、おかしいなと思いながら読み返していたのだが、冒頭に記した某編集長の「突発的」と訳すべき文言なのだということを思い出して、まったく腑に落ちた。

クリステンセンが言っているのは、あくまでも、過去の蓄積とは脈絡のないところで「突発的」に得られた技術に関してであり、たまたま得られた技術だからこそ、既存の手法が通用しないので、新しいアプローチを考えてみようかとなるのである。それが破壊的だからというのではない。

すでに古典となっているこの「イノベーションのジレンマ」(ここでも原題が"Innovator's Dilemma"なのに、なにゆえに「"イノベーション"のジレンマ」になってしまうのか少し引っかかる。語呂がわるいからか?)を先般、めでたく読み終えた。今まで3度手をつけて2度とも半分ぐらいで本がどこかへ行ってしまっていたのだが、3度目は読了できた。おかげで新版の方を読めた。

この本から学べることはたくさんある。経営者がなぜ誤った意思決定を下すのか。人・モノ・金の資源が非常に斬新な商品企画に配分されにくいのはなぜなのか。企業活動にとって顧客はどういう意味を持っているのか。そしてその新しい製品が成功するか否かは技術的に優れているかどうかが問題なのではなく、マーケティングに機転が利くかどうかにかかっているということ。等々である。

非常に刺激的な記述が多々ある。ぜんぶ引用しているとキリがないので、1文だけ。

たとえば、エイモス・トバースキーとダニエル・カーネマンによれば、人びとは、自分に理解できない案は、そこに内在するリスクに関係なく「リスクが大きい」と判断し、理解できる案は、内在するリスクに関係なく「リスクが小さい」と判断する傾向があるという。このため、経営者は、存在しない市場は理解できないため、反対の結論を示す事実があったとしても、新しい市場の開拓はリスクが大きいととらえることがある。同様に、持続的技術への投資は、内在するリスクが大きいとしても、市場のニーズを理解できるために安全だと判断することがある。

「経営者は、存在しない市場は理解できない」。当たり前と言えば当たり前である。しかし、ものすごく深い。たぶんジェームズ・ワット以来、延々と世界中の経営者に突きつけられてきた課題だと思う。ただし、当人は、そういう課題が突きつけられているということをリアルタイムでは理解しない。事後的にその市場が開花してから、「あーそうだったのか」と納得するだけである。冷徹に言わずとも「なんとかの壁」ということになる。

突発的な技術に関しては、理解できる人だけが市場の存在を確信できる。大前研一的に言えば「見えない大陸が“見える”」。

けれども現実問題として、そこに市場が存在していないのにその突発的技術の価値を理解できる人はそうそういるものではない。市場がないものは、価値たりえないと考えるのが普通である。リスクがものすごく大きいと判断して当然である。資源なんか、これっぽっちも出さない。それが普通だ。

ここである。ものすごくポテンシャルのある技術を突発的に得てしまった人の最重要戦略ポイントは。

問題は理解である。それも財布を握る人の理解である。

この理解を醸成するために、ありとあらゆる工夫が試みられなければならない。逆立ちしたりパフォーマンスをしたり。歌を歌ってみせたり、絵に描いてみせたり。

私がよく知っているある会社の場合は、粗雑でもよいからまずプロトタイプに相当するものを作る。そして未完の段階でも、中心的な意思決定者に見せる(この見せ方にファシリテーションが求められる)。そして一度、見せるだけでは終わらせずに、なるたけ似たものを“経験”できる環境へ連れて行く。小学校の社会科の見学のようなものである。見て、説明されて、それに近い経験をさせられると、大概の意思決定者の方々は、「ほほぉ」となる。百聞は一見にしかず。見えない市場を見せる工夫がカギという至極凡庸なまとめに落ち着く。

追記。
けれども、この周辺にはものすごく深い真理が隠されているように思う。市場が形作られる過程で、当然ながら、1人ひとりの顧客が獲得される。彼らは、その突発的技術の価値がわかって対価を払う人たちである。つまり、その価値を理解する。
理解するからこそお金を払う。理解できないものにはお金を払わない。ここに、「イノベーションのジレンマ」で語られている経営者の意思決定とまったく同じ構図がある。

なぜ理解するのか?なぜその突発的技術が盛り込まれた商品の価値がわかるのか?
なぜ?

というより、マーケティング巧者が、そうした顧客がいそうな場所に出向いて、ある種の演技的行為を行い、それが理解されるように、広義のファシリテーションを行って、ものすごーく価値があることを”わからしめ”、それでもって顧客に”成り変らせる”ということを行うのではないか?

無から理解を生じさせる工夫。これはすごく深い課題だと思う。

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