奈良美智のスタイル
奈良美智君が武蔵美にいた時代、彼は一橋学園に住んでいて、私は萩山に住んでいました。西武多摩湖線でつながっているので、割とよく行き来して遊んでいました。
彼は高校の頃から、特定のミュージシャンの特定のアルバムが好きになるとそればっかかけて聴くというスタイルを持っていて、一橋学園にいた頃も、彼の部屋に行くと、ラジカセから流れてくるのは、あるミュージシャンの1つの曲ばっかりということが多かったです。ザ・バーズも多かったけれど、だいたいニール・ヤングであり、だいたい「Don’t Cry No Tears」だった記憶があります。。
2000年頃、「アサヒグラフ」の表紙にいきなり彼が登場して驚いて中を見たら、ドイツの彼のアトリエを訪問した記者のルポが載っていました。そのなかで、「部屋にはニール・ヤングが流れている…」という記述があり「おぉ」と思いました。彼はいまでもしっかりとニール・ヤングを聴いているのか。すげー。素朴に感激しました。
好きな曲を何度も何度も繰り返し聴くのです。(私も気に入った曲を何度も何度も聴きますが、それは彼の真似っこです)
その一徹なスタイルは、彼の風貌にもよく現れていて、メディアで時々みる彼のヘアスタイルや体つきや表情は、萩山あたりで遊んでいた頃の彼のまんまです。
あとは、東京に出てきても方言を変えなかったというのがすごい。津軽地区で育った人はほぼすべてが東京にやってくると、標準語のイントネーションに”スイッチ”します。部分的に適合させるということができない特殊な方言なので、全的に標準語にスイッチするしかないのです。
一般的に、津軽弁から標準語にスイッチする時には、ある種故郷を捨てた的な後ろめたさを感じるものなのですが、「まぁしょうがねーか。ここは大都会なんだし」と多くの場合は折り合いをつける。
けれども、そこに引っ掛かりを感じて、スイッチを潔しとしない人もいるんですね。私も少しつらい時期があった。
奈良氏は、標準語にスイッチするのを最後まで拒絶していた人で、そのままずーっと通してきているようです。もっとも長年、津軽弁を話す人が周囲にいない状況で生きてきていると、だんだん津軽弁度も薄くなるわけですが、それでもテレビなどで時々彼がしゃべっているのを聞くと、「あ、奈良君、いまだにスイッチしていない。すげー」と思ってしまいます。
彼の偉大さの一端は、そのようなスタイルを維持する姿勢にあると思っています。