ベキ法則下の企業活動-その1
先日少し書いた「新ネットワーク思考」(アルバート・ラズロ・バラバシ、NHK出版。原著「Linked: How Everything Is Connected to Everything Else and What It Means」Albert-Laszlo Barabasi)を読んで以来、成長と優先的選択によって自己組織化していく、いわゆるスケールフリーネットワークというものがすごく気になっています。
少し気長にこのへんを書いていきます。
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ランダム・ネットワークと、ベキ法則に従うネットワークとでは、見た目も実際の構造も衝撃的なまでに違っている。それを理解するためにはアメリカの高速道路地図と航空会社のルートマップとを比べてみるのがい。高速道路地図では、都市がノードであり、都市をつなぐ高速道路がリンクである。これはかなり均質なネットワークといえる--主要な都市はどれも、少なくとも一つのリンクで高速道路網とつながっているが、百本もの高速道路につながる都市はただの一つもない。そのため、ほとんどのノードは互いによく似ており、ほぼ同数のリンクを持っている。第二章で論じたように、このような均質性はランダム・ネットワークの重要な特徴であり、リンク数の度数分布にはピークが現れる。
一方、航空会社のルートマップはそれとは根本的に異なっている。ルートマップのネットワークでは、ノードは空港であり、空港同士が直行便というリンクで結ばれている。 中略 このように、どのノードも似たり寄ったりの高速道路地図とは対照的に、航空便のルートマップでは、少数のハブが何百という小さな空港とリンクされているのである。
このような不均質さは、度数分布がベキ法則に従うネットワークの特徴である。現実のネットワークのほとんどは、わずかなリンクしかもたない大多数のノードと、莫大なリンクをもつ一握りのハブが共存しているという特徴をもっている。これを数式で表したのがベキ法則なのだ。
中略
ランダム・ネットワークのピークを持つ度数分布は、大多数のノードは同数のリンクをもつこと、そして平均から大きくはずれるノードはきわめて少ないことを意味している。つまり、ノードがもつリンク数に「スケール(尺度)」が存在するのである。そのスケールを体現するのが、「平均的ノード」だ。一方、ベキ法則に従う系の度数分布にはピークは現れず、現実のネットワークには系を特徴づけるような平均的ノードは存在しない。 中略
このように、ベキ法則は、系に特徴的なスケールとか、系の代表的なノードとかいう考えを捨てるようにわれわれに迫る。ヒエラルキーがなめらかに移行する以上、平均的ノードを指定することも、系に特徴的なスケールを決めることもできないからだ。われわれの研究グループが、ベキ法則に従うネットワークを”スケールフリー(尺度のない)”と呼ぶことにしたのはこのためである。
--「新ネットワーク思考」
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自然は普通、ベキ法則を嫌うものである。通常の系では、どんな量も釣鐘型の分布をとり、指数法則に従って急速に減少する。ところが、系が相転移をしなければならない事態に追い込まれると、状況は一変してベキ法則が現れる。ベキ法則は、カオスが去って秩序が到来することを告げる明らかな徴なのだ。相転移の理論は声高らかに告げていた--無秩序から秩序への道は、自己組織化という強大な力によって切り開かれることを、そしてその道はベキ法則によって舗装されていることを。ベキ法則は、系の振る舞いを特徴づけるさまざまな方法のうちのひとつなどではなかった。それは複雑な系が自己組織化するときに見せるはっきりとした徴だったのである。
--同書
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現実のネットワークは実に多様だが、そのほとんどは本質的に同じ特徴を持っている。それは”成長”という特徴である。
--同書
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スケールフリーネットワークにおいて働くベキ法則がもたらす現象を、かの公文俊平先生がわかりやすく記しておられます。
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昔から、どうも不思議でならないことがありました。それは人間の能力や活動の水準に見られるはなはだしい不均一性です。もちろん能力や活動を評価する次元というか尺度は、たくさんあるでしょう。俗にいう、頭の良さとか、スポーツ神経、芸術的センスなどなどです。かりに、そのひとつとして“頭の良さ”をとってみましょう。
私が入学した地方の私立中学校は中・高一貫教育で、その地方のよくできる子供たちを選りすぐってさらに鍛え上げる教育方針をとっていることで有名でした。受験の季節が近づくと校長先生は、毎年県内の各地に出かけていって、在校生の父兄と面談しながら有望な小学生はいないかと探してまわり、これはと思う生徒がいると聞くと直接面接したり、父兄に受験を勧誘したりしていました。入学試験自体もかなりの競争率で、入学してきた子供たちは、出身小学校ではそれぞれがなかなかの秀才と目されていたはずでした。しかし、その粒選りの秀才たちの集まりが、いっしょに勉強を始めてみると、学力のばらつきの大きさには驚かされました。どうしてこんなことを知っているのか、こんなに飲み込みが早いのかと驚かされる生徒がいるかと思うと、何かの間違いでこの学校に入ってきたのかと思うような生徒もいました。(もちろん同じことは、スポーツの能力や絵や音楽の能力についても言えたし、ひとつの尺度でみるとすぐれた生徒が別の尺度でみると箸にも棒にもかからない劣等生ということはいくらでもありましたが、それはまた別の話です。)
その中で、トップクラスの連中は東大を目指しました。私も合格者の一人に入り、上京して東京で学生生活を送ることになりました。ところが、全国の秀才が集まっているはずの駒場のクラスでも、やはり同じような現象が見られました。大学院でもそうでした。当時大学院に入るためには、優が四分の三以上なくてはならないと言われていたのですが、そこでも各人の学問的能力の懸隔にはそれこそ天地の差がありました。私はその中で、なんとか卒業してたまたま母校に就職したのですが、教授会の同僚をみると、そこにもたいへんな差があることがわかりました。“上には上がいる”という関係は、どこまでいってもはてしがないのです。(おなじことは、スポーツや芸術の世界でもいえるでしょう。)
「ベキ法則と民主主義」公文俊平
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言うまでもなくインターネットはスケールフリーネットワークであり、このネットワークではルーターもノードであり個人のユーザーのパソコンもノードですが、われわれ自身もノードのひとつであると考えられます。(気長に続きます)