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株式会社インフラコモンズ代表取締役の今泉大輔が、現在進行形で取り組んでいるコンシューマ向けITサービス、バイオマス燃料取引の他、これまで関わってきたデータ経営、海外起業、イノベーション、再エネなどの話題について書いて行きます。

自腹情報=消費者経験情報は「経験」に関する「メタデータ」である

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先日来、自腹情報について書いています。「自腹情報」という言葉がよくないので、色々考えましたが、「コンシューマー・スペンディング・コンテンツ」も悪くないものの、活字メディアでのすわりがよくないので「消費者経験情報」と呼ぶのが妥当だろうと思います。以降、この文言で統一します。消費経験情報とせずに消費”者”経験情報としているのは、個人的な行為という意味合いを強調したいためです。また、消費者経験情報には、ここで述べたことから経費による消費も含むものとします。

最近、東浩紀氏が日経NET IT+PLUSで書いた「『メタデータ』が主役のコンテンツ消費・人文系が語るネット」を非常に興味深く読みました。
なるほど現在ではメタデータの方が多く消費されています。

-Quote-
メタデータ、あるいはメタコンテンツの存在は、現在のネットコミュニケーションを考えるうえで避けられない問題である。現在のユーザーは、データを手に入れる前にメタデータを吟味し、コンテンツを鑑賞するまえにメタコンテンツに触れている。というよりも、いまのネットでは、メタコンテンツのほうがコンテンツよりもはるかに大量に消費されている。
-Unquote-

これはどの分野においても細分化が突き進む現在において不可逆な動きです。音楽ひとつとってもジャンルの細分化は過去20年の間に相当に進みました。例えば、Bostonひとつ聴いていれば「オレ、ロック聴いているもんねー」と言えた時期があったわけですが、現在では「ロック」も多様化しているし、そこにクラブミュージックシーンを含めて考えるなら、ジャンル数は数倍になります。到底すべてのジャンルを1人の人間がカバーしておくことはできない。
趣味嗜好によって自ずとカバーできるジャンルが2つ3つ、あるいは10や20、固定化されてくる。それが自然です。

この種の細分化が産業においても消費分野においても日々連綿と進行しているのが現在の特徴と申せましょう。(Web2.0だけ考えてもパターンは8つぐらいありますからね)

このように多様化細分化する社会において、人ひとりがカバーできる範囲はすごく限られている。従って、誰か自分以外の人が「先に経験」してくれていたり、自分よりも「多く深く経験」してくれていたりすると、その人が吐き出す情報はひどく利用価値がある。ということになります。これが自腹情報改め消費者経験情報が持つ価値の根源です。

そして消費者経験情報は、消費経験に関する「メタな情報」であると言い換えられる。当の本人にとっては単に事実だったり感想だったりするわけですが、経験していない人から見れば、非常に有用なその経験についての情報なわけです。経験という”時間とお金の投資”を行う前に、メタ情報によって”投資のリターンが推計できる”という有用性があります。これが持つ価値は実際ものすごいです。

持論ですが、消費行為は、ある意味で投資です。お金や時間を投入する前に、満足や快感や味覚といったリターンを思い描く。そのリターンに対して投下する金額が見合うかどうかを値踏みする。自分が設定しているスクリーニング基準よりも推計リターンが大きければ実際にお金や時間を投入する。そうして実際に確かめる。
結果は…。「うぎゃあ。こんなものにお金を投下するんじゃなかった」となることもあれば、「ふっふっふ。読みは当たった。大満足ぢゃ」となることもある。
消費行為の本質はそれなわけです。特にマスマーケティング的な文脈に乗せられないで、なるべく自分で選択して自分で買うという行為が主流になりつつある現在、投資としての消費という捉え方が大切になってきます。

消費者経験情報は、そうした投資に先立って、誰か別の人が投資をしてくれて、かつその結果がどうだったかをシェアしてくれる情報なわけです。リターンを確実なものにすることもできるし、リターンがマイナスに陥るのを予め防ぐこともできます。

けれどもここで非常に哲学的な問題に遭遇します。はたして、メタ情報である消費者経験情報ばかりを見て歩いて、それで非常に満足した気分になって、実際に経験することがほとんどないという状況と、消費者経験情報なんかほとんど見ないでどんどん身銭を切って消費者経験を豊富に蓄積していく状況と、どちらがあるべき姿なのか?という問題です。言い換えれば、他者が繰り出すメタ情報でリスクの値踏みばかりをしていて実際に投資しないという状況と、メタ情報の存在をある程度は無視して進んで投資をするという状況と、どちらが本来的にその人を豊かにするのか、という問題だとも言えます。その人のリスク選好度も関わってきますが、本来的には非常に哲学的な問題です。

情報のナビゲートなしに、裸で状況に飛び込んでいって得られる経験と、過去に1人以上の先達が存在していてそのナビゲートでもって、それをなぞるようにして得る経験とでは、経験の深さやリアリティがぜんぜん違うことは明らかです。はたしてどっちがいいのか?

だらだら論じているとキリがないので短く締めますが、現在ではメタ情報によってリスク軽減を優先させるべき分野と、メタ情報なしでいきなり経験するのが好ましい分野とを、各自が使い分けることができる便利な時代になっているということが言えます。
例えば、ゲームの購入においては人のメタ情報をすごく参考にしてあまり本数を買わないけれども、バー選びにおいては自分の嗅覚を頼りにどしどし新しい店に入っていって当たりはずれを見極めるのが自分の流儀、といったように。

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