日本人のキャラクターデザイナーがアバターを作った日本発のSecond Lifeがあってもいい
Second Lifeがすごそうだというのは私にもよく理解できます。以前、テライユキの時代に、3Dのモデリングや空間の作り方に少し興味を持ちました。けれども絵心ならぬ彫刻心がなかったので、どうせモデリングなんかできないと諦めて、自分で作るのはよしました(彫刻心のおおもとはデッサン力ですね)
また、雑誌記事の取材で3D CADの導入事例をいくつか取材していたので、三次元でモノを設計するということが、リアルなモノづくりにどういう意味を持つのかも少しは理解していました。
Second Lifeとは、実質的に無限大の空間を使って、自分の好きなように3Dのモデリングができ、モデリングしたモノを見せびらかしたり、モデリングした建物の中に他者を来させたり、さらには販売したりということができる空間だと認識しています。そしてコミュニティでもあるわけなので、そこに社会ネットワーク的なダイナミズムが生まれます。梅田望夫氏の言う「総表現社会」が三次元のモデリングというリテラシーでにぎわいを帯びるのです。
この空間ではモデリングがすぐにモノとしての実体を持つので、その出来具合を現実味のある形で確かめながら、あーだこーだとひねくり回すことができます。よいものができたら、人から誉めてもらえるし、買ってくれる人も出てくるという空間です。
そしてこの空間は、高さと広がりを持ったイノベーションの空間でもあります。高さと広がりがなければ試すことのできないイノベーションを、心行くまで試してみることができます。それは、かっちりとした建築に留まらず、もっと広がりのある空間のあり方の実験、移動に関する感覚の実験、瞬間移動の本質的な意味の把握などもやれるとにらんでいます。(そして10年ぐらいすると、それがリアル空間にフィードバックされてくる、という類のものでもあります)
そういうイノベーションができる空間であり、そこに非常に大きな可能性があることはわかるのです。
けれども残念なことに日本人のわれわれにとっては、そのビジュアルが…。
そこでタイトルに掲げたように、日本人のわれわれが普通になじむことのできる、というより、積極的に思い入れができる、あるいは萌え~でもカワイイでも何でもいいので、視覚的な価値を認めることができる、日本人デザイナーが作ったアバターが歩き回ることのできるSecond Life的な空間があってもいいと思います。
日本のアニメカルチャーやコミックカルチャーは今や世界文化ですから、世界各国の若者の脳裏に、日本のアニメやコミックのキャラクターの根底を成す美的基準が刷り込まれている可能性はかなりあると思います。もしそうなら、”見た目”で日本発のSecond Lifeを選ぶという人も世界各国にたくさんいると思うのですが。
↓FlickrのCosplayのタグに集まった写真に表れている美的感覚を持っている人は、おそらくSecond Lifeには寄り付かないのでは…と思ってしまいます。(よけいなお世話かもしれませんが)