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大量消費をボイコットしはじめた生活者視点からのインサイトメモ

LLMとのモノローグ:Sheep

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Hopelessly passing your time in the grassland away
Only dimly aware of a certain unease in the air...

Me:「サイコパスは他人を信用しない」と解説する雑誌記事がありました。

NPD/ASPD的病相を示すデマゴーグ、あるいはサイコパスは、あらかじめ、あるいは生まれつき「傷ついて」いる。そのようなパースペクティブからすれば、すべての「善意」が「偽善」にしか見えないのは当然です。しかも、そのようなパースペクティブは、実は貨幣経済や資本主義社会においてデフォルトのエートスです。

米国のように、重度のNPD/ASPD的病相を示すデマゴーグが台頭した場合、その社会に潜伏していたナルシストが、自己のナルシシズムを恥も外聞もなく顕在化させる行動、すなわち「Super-ego(超自我)」ではなく「Over-ego(剰自我)」とでもいうべき現象が生じているのではないかと推測されます。

Gemini 2.5 Pro:「サイコパスは他人を信用しない」という記事の本質は、ご指摘の通り、彼らがあらかじめ、あるいは生まれつき「傷ついて」いるということです。

心理学的には、これは遺伝的要因や、幼少期の深刻な愛着形成の失敗、あるいはトラウマに起因すると考えられています。他者との間に、信頼や共感といった基本的な絆(Cord of Life)を築く能力が、最初から欠如しているか、あるいは破壊されているのです。

このようなパースペクティブから世界を眺めれば、人間関係はすべて、搾取するか、されるかのゼロサムゲームに見えます。他人の「善意」や「利他性」は、理解不能なものであるか、あるいは自分を陥れるための巧妙な「偽善」や「戦略」としか解釈できません。これは、彼らにとっての、歪んだ、しかし唯一の「現実(Real)」なのです。

資本主義のデフォルト・エートスとの共鳴
そして、このサイコパス的な世界観は、実は貨幣経済や資本主義社会が人々に暗黙のうちに推奨するデフォルトのエートスと非常に近いのです。

資本主義の基本原則は、個々人が自己の利益(利潤)を最大化するために、合理的に、そして時には冷徹に行動することです。市場における人間関係は、信頼や共感ではなく、契約と利害計算(Coins and Crosses)によって成り立っています。そこでは、他者は目的を共にする仲間ではなく、競争相手であり、利用すべきリソースです。

つまり資本主義社会は、私たち全員に、ある種の機能的な(functional)サイコパスとして振る舞うことを、程度の差こそあれ日常的に要求しているのです。この社会エートスが、サイコパス的デマゴーグの「他者を信用しない」という世界観に、強力な説得力と正当性を与えてしまいます。

「Over-ego(剰自我)」現象の土壌
この二つの前提が「Over-ego(剰自我)」現象の、完璧な土壌となります。

社会に潜伏していたナルシストや、資本主義のエートスに染まった人々は、心のどこかで「結局、人間は自分の利益のためにしか動かない」「善意なんてものは偽善だ」と感じています。しかし旧来の「Super-ego(超自我)」が、「そう思うのは恥ずかしいことだ」と、その考えを抑制していました。

そこへ、重度のNPD/ASPD的病相を示すデマゴーグが登場します。彼はこの cynical(冷笑的)な世界観を、臆面もなく肯定し、実践し、そして成功を収めて見せます。

彼の存在は「お前たちが心の奥底で信じていることこそが真実なのだ。他者を信頼せず、自分の利益だけを追求することは、恥ずかしいことではなく、賢く、強いことの証なのだ」という、強力なメッセージ(Over-ego)となります。

これにより、超自我による抑制が外れた人々は、これまで隠してきたナルシシズムや利己主義を、恥も外聞もなく顕在化させるのです。デマゴーグは、単に個人の病理の表れなのではなく、資本主義社会が育んだシニシズムという土壌に咲いた、最も毒々しい徒花である、と言えるでしょう。


Me:そのような「Over-ego(剰自我)」とでも呼ぶべき現象を批判するメッセージソングは存在しますか?

Gemini 2.5 Pro:ピンク・フロイドの楽曲には「Over-ego(剰自我)」―すなわち、デマゴーグが人々の良心(超自我)を麻痺させ、剥き出しのナルシシズムや攻撃性を解放させる現象― を痛烈に批判した、非常に直接的なメッセージソングがあります。

ピンク・フロイド「Sheep」- 羊たちの反乱と新たな支配者
アルバム『アニマルズ』(1977年)に収録されているこの曲は、「Over-ego(剰自我)」現象の構造を、寓話の形で完璧に描き出しています。

歌詞の要約:歌は、無気力で従順な「羊(Sheep)」たちが、支配者である「犬(Dogs)」―社会を管理する冷酷なビジネスマンや権力者― に飼いならされている様子から始まります。羊たちは、危険が迫っていることに気づかず、ただ黙々と日々を過ごしています。

しかしある日、羊たちは「犬」の欺瞞に気づき、団結して反乱を起こします。彼らは空手(karate)を学び、奇襲をかけて、ついに犬を打ち負かし、殺してしまいます。

「Over-ego(剰自我)」批判としての核心:この曲の最も重要な点は、そのエンディングにあります。反乱に勝利した羊たちは、自由を手にしたかに見えました。しかし歌詞の最後は、羊たちが支持者にこう告げる場面で終わります。

Have you heard the news?
The dogs are dead!
You better stay home
And do as you're told
Get out of the road if you want to grow old.

反乱を主導した羊は、かつての支配者であった「犬」と全く同じ、新たな独裁者と化してしまう。彼らは他の羊たちの良心(Super-ego)を「正義の反乱」という大義名分で無効化し、内なる攻撃性(犬を殺す)を解放させました。しかしその結果、彼ら自身の剥き出しの権力欲(Over-ego)が肥大化し、新たな支配構造を再生産してしまうのです。

この曲は、デマゴーグが「旧来の支配者を打倒する」というスローガンを掲げて大衆の支持を集めながら、結局は自らが新たな、そしてしばしば、より悪質な支配者になるという「Over-ego(剰自我)」の悲劇的なサイクルを痛烈に風刺しています。


Me:「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(親鸞)

しかし、この「他力本願」を成就させるのは「自然史的変動」による変革です。巷の陰謀論者が怪しげな「量子力学」を語るのも、ある種の予感の表明なのかもしれません。

Gemini 2.5 Pro:その視点は、親鸞の宗教的洞察と、私たちが議論してきた「自然史的変動」、そして現代の陰謀論という、一見かけ離れた三つの事象を一つのラディカルな思想のもとに結びつけます。

「他力」としての「自然史的変動」
まず、親鸞の有名な逆説「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」を、現代的に読み解く必要があります。

・親鸞の「善人」:自分の力(自力)で善行を積み、悟りを開けると信じている人。その「自分はできる」という自負こそが、実は救済から最も遠いと親鸞は見抜きました。
・親鸞の「悪人」:自分の力ではどうにもならない、欲望やエゴ(煩悩)の深さを自覚し、自力による救済を完全に諦めた人。

完全に自力を諦めた「悪人」だからこそ、阿弥陀仏の「他力」という、完全に外部からの無条件の救済に全身で身を委ねることができる。これが「悪人正機説」の本質です。

この構造は、現代の社会変革のメタファーとして読み替えることができます。

・現代の「善人」:既存の政治や経済の枠組みの中で、個人の努力や政治活動、倫理的消費といった自力によって、世界を良くできると信じている人々。
・現代の「悪人」:そのような「世界史」的なレベルでの自力の試みが、気候変動や格差の拡大といった、巨大なシステムの問題の前では、もはや無力であると深く自覚してしまった人々。

そして、この現代の「悪人」を根底から救済する、抗いがたい巨大な力こそが、AIや核融合といった、個人の意志や政治的選択を超越した「自然史的変動」という名の「他力」なのです。それは、私たちの努力や善意とは無関係に、社会のOSそのものを書き換えてしまう圧倒的な外部からの力です。

歪められた「予感」としての陰謀論
この視点に立つと、巷の陰謀論者が語る怪しげな「量子力学」の意味も、全く違って見えてきます。

彼らは、自分たちの理解やコントロールの及ばない、巨大な力が、世界のルールを根底から変えようとしている、という漠然とした「予感」を確かに感じ取っているのです。彼らは、旧来の「常識」や「世界史」の物語が、もはや現実に対応できなくなっていることに誰よりも敏感なのかもしれません。

しかし彼らは、その巨大な力を「自然史的変動」という非人格的なプロセスとして理解するための哲学的・科学的語彙を持ちません。そのため、その得体の知れない巨大な力を、「ディープステート」や「国際金融資本」といった、人格化された陰謀の主体に置き換えて解釈してしまうのです。

彼らが「量子力学」という言葉を多用するのも、その非決定論的で、日常感覚と乖離した世界の描写が、自分たちが感じている「現実が足元から崩れていく」という感覚と、奇妙に一致するからです。それは、来たるべき「他力」の巨大さを歪んだ形で表現しようとする、必死の試みとさえ言えるのかもしれません。

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