1歳4ヶ月の息子の経路依存から
W・ブライアン・アーサーの「収益逓増と経路依存」を少し前に買って、ちまちまとめくっているのですが、数式が多用されている本なので、自分にわかる部分だけ、都合よく頭に入れています。
「価値」や「意味」に対して関心が集まったり、多数の顧客が金銭を支払ったりするのも、自分の理解では一種の経路依存だと思っているのですが、その伝でいくと、様々なものが経路依存で説明できるようになります。
休みの日は自宅で2回ぐらい風呂に入ります。入浴剤のベストはクナイプのワコルダーです。ワコルダーは杜松(ねづ)、杜松はJuniperということで、精油の世界ではJuniperが通り名ですね。
それはよいとして、歩き始めて2ヶ月ぐらいになる息子は、風呂場への短い廊下を通って風呂に入っている私のところに来ます。それから戸を開けて、笑って、閉めて、行ってしまいます。それからすぐにまた来て、戸を開けて、笑って、閉めて、また行ってしまいます。これを何度か繰り返します。
これって経路を作りつつあるということではないかとにらんでいます。経路依存の状態にまで行くと、彼の内部において、手馴れた行為パターンが1つ増える。そうなると、いつでも自由にそれを行うことができるようになる。そうなるまで繰り返すんでしょうね。学習とほぼ等価です。
1つ好きなブログができて、日に1度アクセスしてみたり、仕事の手が空いた時にふらっと寄ってみたりしたくなるのも、上の息子の行為とすごく似ているのではと思うわけです。
誰かが言及している本を、アマゾンでカートに入れて、その場ではチェックアウトせずに数日放っておいて、それから1度か2度アクセスしてカートの中身を確かめて…という行為も、購入というある閾値を越えるられるポテンシャルを持った経路依存を形作る行為なのではないかと思います(しかし「経路依存を形作る」という表現はなんかヘンですね。いい表現はないものでしょうか)。
価値への希求や特定の商品への関心の高まりを経路依存で説明できるようになると、そのメカニズムをノードと方向性のあるリンクで視覚化できると思います。その際のノードとは、「消費者」とか「製品A」といったざっくりしたものではなく、もっと精妙な「消費者Aの脳裏にあるXXXという語彙で想起されるYYYYという経験への淡い期待」とか、「商品Bの購入によって経験することが可能になるZZZZという皮膚感覚へのあこれがれ」とかいった、ひどく抽象的な”要素”になるのではと思います。
こうした抽象的な要素から成るノードとノードの方向性のあるリンケージを頭のなかで視覚化して思い浮かべてみると、おもしろいでしょう。例えば「グリコポッキー」の新作に張られている無数の消費者から延びたリンク、そのリンク1本々々が表している価値や意味や経験への希求。
そうしたものを仮に、SNAの知見などを使って定量的に抽出することができるのであれば、おもしろくなるかも知れませんね。
ネットの世界では、被リンクは、他者への推奨に値する価値に対して発生するらしいので、その商品に多くリンクが張られるか否かも、商品自体に「推奨」が内包されているかどうかがカギでしょうね。とは言うものの、他者への推奨は、あるコンテキストのなかで起こるものなので、そのコンテキストを作ることこそ、売りの決め手ということになるんだと思います。
では、そのコンテキストを形作る要素とは?
未来への期待、といったところなんでしょうね。1時間先、半年先、5年先の幸福な未来をリアリティのある形でほのめかすことができれば、よいコンテキストになるわけでしょう。
いまの時代の気分で言うと、真にクリエイティビティのある生活、といったところでしょうか。