カルティエ現代美術財団展で五感が開きっぱなし
横山大道を除けば、知らない作家の作品ばかりが展示されていたカルティエ現代美術財団コレクションでしたが、リアルタイムで創作活動を行っている作家の比較的フレッシュな作品に五感をさらすということはどういうことなのか、そのへんをよく考えさせてくれました。
ブログを書いている人は誰も何らかの問題意識を持っているわけですが、その”いま”持っている問題意識と同じものを存命中の現代美術作家も持っているわけで、出し方がブログであるか、ミクストメディアなどの作品であるか、その違いだけなのではないかとということを思ったりしました。無論、職業としてアートをやっている人には、非常に高度な集中があり、表現されるものの密度が格段に違うわけですが、”この文脈”で”あれ”を表出するという行動は、根源的なところでは同じなのではないかと思います。
個人的に一番感激したのは、デニス・オッペンハイムのテーブル・ピースという作品でした。(東京都現代美術館のこのページから個々の作品のさわりを見ることができます。3Fに展示されている細長い作品です)
これは、18メートルもある長いテーブルの両端にいる人形が、それぞれに意味不明の言葉を連呼しているのが、ある周期で同期したり、同期がはずれたりして、その音響が部屋いっぱいに響き渡っているという作品です。片方の人形は黒い服を着ており、もう片方は白い服を着ています。黒服側のテーブルの表面は真っ黒であり、それがグラデーションで白服側の真っ白なテーブルへつながっています。
よく聞くと、白の方は"White"を連呼しながら、微妙に"Why not?"へと音がずれていくようであり、黒の方は"Black"を連呼しながら別な言葉へとずれていっています。それぞれがこだまし、同期し、非同期へと推移します。
18メートルという長さがあるだけに、一方の黒服へ近寄って、そこでしゃがんで反対側の白服を見たり、それから白服側に寄って行って、口から出している言葉に耳を傾けたりする際に、とにかく歩かなければならない。そしてその間中、かなり大きな音で意味不明の言葉が連呼されている。そういう五感でもって作家が抽出したものを否応なく体験させられるというところが非常にすごく、個人的には鳥肌ものでした。
そのほか、圧倒させられた作品として、ライザ・ルーの裏庭、マーク・ニューソンのケルヴィン40、それから控えがないので名前が書けない「われらの時代に」という”飛びもの”の悲劇を扱った映像作品があります。
日常的に仕事で、あるいは個人的なブログなどでコンピュータを使っている時間が長いと、どうしても活用する感覚は限られたものになるわけで、そうした普段使っていない感覚がこうした空間系の美術作品に触れると、ぐいっと無理くり開かされる形になり、なんというか五感のリハビリテーション効果のようなものがあるかも知れません。
ここに集められた作品の多くはリアルタイムな問題意識を持っており、上で述べたように作家のブログだともとれるところがあります。観る人に対して五感をぐりぐりやることができるブログとでも言ったらいいか。
個人的には、「それを観た後で人が変ってしまう」のが究極の美術作品だと思っています。この展覧会で言えば、ぐりぐりやられた五感が、ある種開きっぱなしの状態になってしまうのがすごい作品ということになるでしょうか。そういうのが何点かあるように思います。
ポスターにもなっているロン・ミュエクのイン・ベッド。これなんかも、人形の”生身”感がものすごいです。