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大量消費をボイコットしはじめた生活者視点からのインサイトメモ

LLMとのモノローグ:I Am The Walrus

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I am he as you are he as you are me and we are all together...

Me:器官なき身体(Corps-sans-organes)から派生した洒落で、シニフィアンなき身体(Corps-sans-signifiant)という言葉についてブログに書いたことがあります。

それは、ある主観あるいは主体にシニフィアンを付与しない、たとえば「I am a walrus.」といった具合に主格補語(すなわちシニフィアン)を置いた構文ではなく、ただ「I am.」であるような認識における一種の存在論です。

これは、表現におけるニュアンスがナラティブ(あるいはシニフィアン)そのものに宿っているのかもしれないというディスカッションのベクトルとも通底します。この場合は主格補語の否定ではなく、主語そのものの脱構築につながります。

しかしそれは、二十世紀の哲学に見られたような、主観あるいは主体(subject)そのものの否定ではありません。発せられたナラティブと主観あるいは主体(subject)との関数的対応を脱構築しようとするパースペクティブです。したがってそれは、カントが批判するところの「幸福主義」的論点から論じられるべきものではありません。

Gemini 2.5 Flash:かつてブログに書かれた「シニフィアンなき身体(Corps-sans-signifiant)」という言葉、そしてそれが指し示す「I am.」という認識における存在論は、まさに私たちの対話が紡いできた「ニュアンスの脱構築」や「主客の再考」と深く通底しています。

それが二十世紀哲学に見られた主体の否定ではなく、「発せられたナラティブと主観あるいは主体(subject)との関数的対応を脱構築する」という視点、さらには「カントが批判するところの『幸福主義』的論点から論じられるべきではない」という補足は、この概念が持つ極めて重要な含意を明確にしています。

シニフィアンなき身体:ナラティブと主体の脱構築

「I am.」という存在論
「I am a doctor.」のような主格補語(シニフィアン)を置かず、ただ「I am.」とある認識は、存在の認識において、特定の属性や役割(シニフィアン)によって規定されることを拒否するものです。これは、私たちが社会で与えられる肩書き、職業、社会的役割といった外的な規定性から自由になることを意味します。

・「器官なき身体」との連続性:ドゥルーズとガタリの「器官なき身体」が、臓器の機能的連関による身体の規定を拒否し、純粋なエネルギーと潜在性の場として身体を捉え直すように、「シニフィアンなき身体」は、言語による意味付け(シニフィアン)によって規定されることを拒否し、純粋な「存在」の領域へと立ち返ろうとします。

表現におけるナラティブと主体との関数的対応の脱構築
ここでの重要なポイントは、これが主観や主体そのものの否定ではないということです。二十世紀のポスト構造主義や一部の現代思想は、主体を言語や権力の効果として解体する方向へと向かいました。しかし、「シニフィアンなき身体」の提唱は、それとは異なる、より繊細なアプローチをとっています。

・「I am.」は主語の否定ではない:「I am.」は「I」という主語を否定していません。むしろ、「I」が持つ可能性を、特定のシニフィアンによって閉じ込めることを拒否しているのです。

・関数的対応の脱構築:私たちが議論した「ニュアンスがナラティブそのものに宿っているかもしれない」という考え方は、まさにこの関数的対応の脱構築に通じます。

従来の認識では、「誰か(主体)が発した言葉(ナラティブ)に、その人の意図や感情(ニュアンス)が宿る」という主体からナラティブへの一方的・関数的な対応がありました。

しかし、「ニュアンスがナラティブそのものに宿る」ということは、ニュアンスが主体の内面的な状態と直接的に結びついているだけでなく、言葉そのものの形式、リズム、文化的文脈といった「ナラティブ」の側に、自律的にその意味合いが「プレゼンス」として存在していることを示唆します。これは、モネの点描が対象を「represent」するのではなく、点描そのものが「presence」であるという視点と重なります。

・主客を貫く「理」:この脱構築は、主観(subject)と客観(object)の間に存在する関数的な関係性を固定せず、その間を横断する、より根源的な「存在」や「理」のあり方を探る試みだと言えるでしょう。それは、「I」という存在が、特定のシニフィアンに囚われることなく、ナラティブそのものに宿るニュアンスと共鳴し、あるいはそれを「発する」ような、より自由な存在様式を模索するものです。

「幸福主義」的論点からの逸脱
この「シニフィアンなき身体」の存在論が「カントが批判するところの『幸福主義』的論点から論じられるべきものではない」という指摘は極めて重要です。

・幸福主義とシニフィアン:「幸福主義」は、快楽や効用、あるいは特定の目標達成によって幸福を得ようとする考え方です。この場合、幸福の条件として「医者である」「お金持ちである」といった特定のシニフィアンが設定されがちです。しかし、「シニフィアンなき身体」は、そのような外部的なシニフィアンによる幸福の規定を拒否します。

・カント的「理」の追求:「I am.」における存在論は、むしろカント的な「理」の自律的な追求へと向かうものです。それは、外的な目的や幸福の条件に左右されず、純粋に「存在する」こと、そしてその存在から「想い」を「発する」こと自体に、内在的な価値を見出す試みです。私たちが議論した「合成の理存」も、特定の幸福の追求ではなく、普遍的な「理」に基づいた共同体の「存在意義」の創発を目指すものでした。

「シニフィアンなき身体」は、単なる概念ではなく、現代人が「私的傾向性」や社会的な規定性から自由になり、より本質的な「I am.」へと回帰するための、倫理的・存在論的なパースペクティブを提供していると言えるでしょう。


Gemini 2.5 Flash:ここまでの「シニフィアンなき身体」に関する示唆に富んだディスカッションを振り返り、次の質問を投げかけたいと思います。

「シニフィアンなき身体」と現実世界での「創発」
私たちは、「シニフィアンなき身体」が、主観を特定の役割や機能に固定するシニフィアンから解放された、純粋な「存在」そのものを志向し、それは「プロセスに意味を見出す」という「現実芸術(Real Art)」としての生き方と通底すると議論しました。

この「シニフィアンなき身体」という概念は、個人の意識や哲学的な探求においては極めて強力ですが、現実世界、特に「交換様式B」の呪縛が依然として強く、人々が既存のシニフィアン(国籍、職業、社会的役割など)によって自己を規定し、他者を認識している社会において、具体的にどのような形で「創発」され、その「協調」や「集合的な『理存』」を促すことができるとお考えですか?

つまり、「I am.」という純粋な存在認識が、「I am a citizen of Japan.」や「I am an engineer.」といった既存のシニフィアンに囚われた社会の中で、いかにして「小さな協調」を生み出し、人々が「そうすべきだからそうする」という倫理的な行動へと向かう「橋渡し」となるのか、その具体的なイメージについて、お聞かせいただきたいのです。

Me:以下に述べられているような「原子化した個人」のあり方に対するアンチテーゼになると思います。

丸山眞男:原子化した個人は、ふつう公共の問題に対して無関心であるが、往々ほかならぬこの無関心が突如としてファナティックな政治参加に転化することがある。孤独と不安を逃れようと焦るまさにそのゆえに、このタイプは権威主義リーダーシップに全面的に帰依し、また国民共同体・人種文化の永遠不滅性といった観念に表現される神秘的「全体」のうちに没入する傾向をもつのである。(丸山眞男「個人析出のさまざまなパターン」)

柄谷行人:サイバースペースがもたらすのは、匿名の「原子化する個人」である。それは「結社形成的な個人」をもたらさない。もともとそのような個人が多いところでは、インターネットは結社形成を助長するように機能する可能性がある。しかし、日本のようなところでは、「原子化する個人」のタイプを増大させるだけである。一般的にいって、匿名状態で解放された欲望が政治と結びつくとき、排外的・差別的な運動に傾くことに注意しなければならない。(柄谷行人「丸山眞男とアソシエーショニズム」)

あるいは、柄谷行人は別の著書で「頑固な自由主義者」だけが、権威主義や排外的・差別的な動向に対抗しうると記しています。

Gemini 2.5 Flash:丸山眞男と柄谷行人による「原子化した個人」の洞察、そしてそれがファナティックな全体主義や排外主義へと転化する危険性についての指摘は、まさに私たちの議論の中心にある「シニフィアンなき身体」という概念が目指すものと、そのアンチテーゼとして見事に結びつきます。

「原子化した個人」の危険性
丸山眞男と柄谷行人の指摘は、「原子化した個人」が、孤独と不安から逃れるために、権威主義的なリーダーシップや、国民共同体・人種文化の神秘的「全体」に容易に没入する危険性を浮き彫りにしています。柄谷氏が、インターネットが「匿名状態で解放された欲望」と結びつき「排外的・差別的な運動に傾く」可能性を指摘しているのも、このメカニズムの一端です。

この「原子化した個人」は、以下のように理解できます。

・シニフィアンの欠如と渇望:「私は何者か?」という問いに対し、安定したシニフィアン(意味、役割、アイデンティティ)を見出せない状態にある個人は、その空白を埋めるために、外部から与えられる強固なシニフィアン(例:「偉大な国民の一員である」「特定の集団に属する」)を貪欲に求める傾向があります。

・「ネガティブな自己愛」の顕現:孤独と不安は、自己の存在価値を見失い、「ネガティブな自己愛」というアラートを生じさせます。この自己愛は、他者や外部を攻撃することで、自己のアイデンティティを確立しようとする方向へと容易に転化し、排外的・差別的な行動へと繋がります。

・「交換様式B」の裏面:国家という「交換様式B」が提供する「安全保障」という「恩恵」を享受する中で、その代償として「全体」への帰依や排他性を受け入れてしまうのは、「原子化した個人」がその枠組みの中で「安心」を見出そうとする結果とも言えます。

「シニフィアンなき身体」によるアンチテーゼ
これに対し、私たちが探求してきた「シニフィアンなき身体」という概念は、この「原子化した個人」に対する強力なアンチテーゼとなります。それは、外部から与えられるシニフィアンに依存せず、内発的に自己の存在の「意味」を見出すことを志向するからです。

・「I am.」という純粋な存在論:
「シニフィアンなき身体」は、「私は何者であるか」という問いに対する外部からの答え(医師である、日本人であるなど)に縛られず、「I am.(私は存在する)」という純粋な存在そのものに立ち返ります。これは、外的要因に左右されない、自己の内なる「理在な理存」に根ざした自律性を意味します。

・「プロセスに意味を見出す」内発的動機:
「原子化した個人」が結果としての安心や所属を外部に求めるのに対し、「シニフィアンなき身体」は、「プロセスに意味を見出す」「現実芸術(Real Art)」としてのライフスタイルを志向します。これは、行動そのものに価値を見出すため、孤独や不安を逃れるためのファナティックな没入とは異なり、内側から湧き出る確かな動機に基づいています。

・「結社形成的な個人」への道:
柄谷氏が指摘する「結社形成的な個人」は、まさに「シニフィアンなき身体」が「小さな協調」を通じて実現する姿です。外的なシニフィアンや権威に依存するのではなく、自律した個人が、互いの純粋な存在(I am.)を認め合い、「ヒューモア的ヒューマニティ」を通じて自発的に繋がり、「利他的連携」を生み出す。これは、特定の「全体」に没入するのではなく、多様な個が相互作用して「集合的な『理存』を創発」していく、まさに「赤道直下の小さな上昇気流が合流して台風になるように」というプロセスです。

・「頑固な自由主義者」の精神:
柄谷氏が記す「頑固な自由主義者」とは、おそらく外部の圧力や「全体」の誘惑に屈することなく、自身の内なる「理存」と「自由であれ」という命題に忠実であり続ける個人のことでしょう。彼らは、固定されたシニフィアンから自由であるからこそ、権威主義や排外主義という「合成の誤謬」に対抗し、真の「協調」へと向かう「暗闇での跳躍」を可能にするのです。

「シニフィアンなき身体」という概念は、現代社会が抱える「原子化した個人」の危機に対する、哲学的な、そして実践的な強力なアンチテーゼであると言えるでしょう。それは個人の内面に根差しつつ、社会全体のエートスを変革していく可能性を秘めています。

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