昭和の時代、女性のライフプランの変遷。学業、就職、結婚、出産。
昭和の庶民の生活史を、風化させないよう、書き残そうとしています。
今回は、女性のライフプランの変遷について。進学、就職、結婚、出産の事情です。
昭和25年には、23.6歳で結婚の後に出産。昭和60年では、25.8歳で結婚の後に出産。
今では、恋愛を何度か経験した後に結婚相手を決めたり、妊娠後に婚姻届けを提出したり、また、離婚する人もいます。
これらは、昭和の時代には、忌避されていました。
まず、「結婚の後に子を成す」という順序が社会規範として、守られていました。
また、離婚はタブーとされていました。事件レベルのDVであっても、耐えて添い遂げるのが美徳とされていました。
ですから、多くの場合。初婚年齢に10カ月を足した年齢以降に、第一子を出産していることになります。
その初婚年齢のデータは公開されています。
厚生労働省/高齢社会対策/高齢社会白書/平成9年版目次/
資料:厚生省国立社会保障・人口問題研究所「人口統計資料集」(平成7年)
「表3-3-4 生涯未婚率と初婚年齢」
つまり、昭和25年には23.595歳で結婚して、24歳以降に第一子。昭和60年には25.837歳で結婚して、26歳以降に第一子、ということです。昭和25年といえば終戦後5年、まだ「産めよ増やせよ」の圧力が残っていた時代です。それでも成人後に結婚して出産するのが、標準的なライフプランだったといえるでしょう。
昭和の半世紀で、平均寿命は大きく伸びました。栄養状態がよくなり、医療が発達して乳児の死亡が減り、感染症での死亡も減り、冷暖房が完備されてヒートショックが減りました。昭和25年から60年では17歳ほど伸びています。初婚年齢は寿命の伸びとは無関係のようです。
厚生労働省/統計情報/報道発表資料トピックス「表2 完全生命表における平均余命の年次推移」
昭和中頃まで、女性は花嫁修業後、20代前半で結婚して、半ばに第一子
これらの統計は、頷けるものです。筆者が見聞きしてきた情報と大きく違うということはありません。
昭和中期まで、筆者の女性親族たちは、どういう人生を歩んだのか。母から聞き取ったことを書いてみます。
筆者の母方の祖母は、大正時代の後期、20代前半で、すこし年上で顔見知りの祖父と結婚しました。祖母と祖父はいとこで、祖父の母(曾祖母)が祖母を気に入り、ぜひウチに、ということで決まったそうです。
祖母は主婦で和裁講師、祖父は公務員のち会社員です。
子どもは、6人。上から順に、長男、長女(筆者の母)、次女、次男、三男、三女。
祖母は長男を20代半ばで産み、15~16年後、つまり40歳を過ぎて6人目となる三女を産みました。
当時の子育ては、ワンオペではありません。祖母は8人きょうだいの末っ子で、多数の親族が地域内に住んでおり、育児を手伝いました。
また、長女が、歳の離れている三女の育児を担いました。
祖父は何度が出征していますが、任務が国境警備であったため人を傷つけることなく済み、先の大戦では年齢制限から出征せず退役となり、終戦頃に定年退職しています。当時は、夫が出征して亡くなったり、怪我の後遺症を抱えるケースが多く、複数の子を抱えた若い母親たちが困窮するような状況でした。助け合いの精神がまだ残っていた時代とはいえ、皆が生きるだけで精一杯。分かちあえるほどの物資もなく、助けたくとも物理的に不可能だったのです。そのような時代では、祖母の出産育児の環境は恵まれていたといっていいでしょう。
祖母は、婦人雑誌「家の光」を購読して、育児や家事や健康に関する情報を得ていたそうです。
祖父母の教育方針は、男女関係なく等しく学歴を付けるというもので、高校までは学費を惜しみませんでした。当時このような、教育に男女差を付けない家庭はきわめてレアでした。昭和中期までは、男子は高校や大学に進学させ、女子は中卒後、家事手伝いをしながら花嫁修業、という家庭も少なくなかったのです。
さて、祖父母の6人の子のうち、長男は、銀行員で転勤が多かったため、30代になってから、すこし年下の方と見合い結婚、2子をもうけました。
長女(筆者の母、昭和一桁)は、専門学校を終えて数年間企業勤務、実家へ戻って家事を手伝い、33歳のときに見合い結婚、34歳で第一子(筆者)を産みました。
次女は、20歳を過ぎて見合い結婚、起業して経営するかたわら、4人の子を産みました。
次男と三男は、就職後、20代後半で、同年代の女性と結婚、会社員と専業主婦の家庭を築きました。次男は1子、三男は2子をもうけました。
三女は、高校卒業後数年間勤務、同じ絵画教室に通う同年齢の会社員と成人後すぐに結婚、家庭に入り、2子をもうけました。結婚式と披露宴の費用を貯めてから結婚するのが一般的だったので、21~22歳での結婚は、当時でも早く、驚きをもって迎えられました。披露宴は、公共の施設を借り、同僚たちによる手作り、料理も立食形式の軽食でした(筆者が幼児のときで出席しました)。
以上が、筆者の母や叔母たち、また叔父の妻たちのライフプランです。
筆者の母以外の女性は、20代で結婚し、すみやかに第一子を産み、専業主婦として家事を担い、数年ごとに第二子以降を産んでいます。
昭和後半、女子短大への進学者が増え、結婚と出産はすこし先送りに
昭和も後半になると、結婚も出産も、2年ほど先送りされるようになりました。
進学する女性が増えたのが、大きな要因です。
ここからは、筆者の勤務先の同僚、取引先の社員たち、学生時代の先輩や同級生たちの事情になります。
高校や女子短大を卒業後に就職した人たちは、男性社員を補助する業務に就き、20代半ばまでに結婚相手を見つけ、婚約して「寿退社」。専業主婦となり、20代のうちに第一子、というプランが一般的でした。
大学に進学した人たちには、医師や高校教師になった人が多いのですが、企業に就職した人もいます。数年間勤務した後、結婚して退社です。これは最高学府に進学しようと同じです。1学年上に、東大卒業後に帰省して数年間教職に就いた後、専業主婦になった人がいます。当時はまだ家庭に入って夫を支えることが社会の要請でしたから、それに従ったのかもしれません。
男性の補助業務とは、一足早く出勤してデスクを拭き、上司や男性社員や顧客の好みを憶えてお茶やコーヒーをいれ、カップを洗い、電話の窓口を務めながら、会議資料のコピーをとり、取引先の方が来られたときは、笑顔で社長室や会議室に案内するといった業務です。昭和の時代はアフターファイブの宴会も多く、お酌をして社員間や取引先との関係を円滑に保つことも、業務の延長線上にありました。また、ばっちりメイクをして男性役員たちが決めた制服を着てヒールをはき、男性社員たちの目と心を和ませる「職場の花」としての役割が、暗にもとめられていました。
これらは、あくまで筆者が知る四国の情報です。他の地域では異なる部分があるでしょう。なお、筆者自身は一人部署業務だったため、男性の補助業務の経験はありません。
ライフプランの選択肢を増やした、男女雇用機会均等法
同じ昭和の時代でも、女性のライフスタイルは、男女雇用機会均等法以降では、事情が異なります。
同法は、1985年(昭和60年 )に成立、翌年施行されました。(1989年が平成元年)
同法の前と後、2つに分けて、筆者が見聞きした情報を書いてみます。
同法施行以前は、職安(ハローワーク)の求人は男女別でした。女性の求人は、看護師など、限られた専門職だけで、ごくわずかでした。
それなら起業すればよいかといえば、男性社員の補助業務では経験を積むことは困難です。
そのうえ女性は、家族からも社会からも、家事を期待されていました。夫はと言えば、よく言えば24時間の企業戦士、悪く言えば社畜。時間外労働は長く、家事を分担する余裕などないといったところです。
まだ外食産業も発展しておらず、毎食、家庭で用意しなければなりません。核家族化で、祖父母や親族の協力も期待できません。
多くの女性は、就職口を見つけられないまま、家事も育児も一人で担っていました。
だからといって性別役割分担そのものに問題があったわけではありません。夫が妻の出産や育児や家事の価値を、正しく理解して評価し、感謝し、妻も夫の労働に感謝して支えるという協力体制を確立し、滞りなく運営できていた家庭もありました。
しかし、経済最優先社会では、収入のない妻は、家庭内での発言力を失いがちです。中には、妻に対して「誰のおかげでメシが食えると思ってるんだ」と言い放ち、外飲みや趣味にはお金を使うけれども、妻にはギリギリの生活費しか渡さない夫もいます。いわゆる経済DVです。
ネットをあまり使わない年配女性には、経済ハラスメントが、DVに含まれることを知らない人もいます。DVの件数は2割という最近の調査結果があります。これを含めれば、3割を超えるかも?しれません。
こうした閉塞的な状況が、男女雇用機会均等法で大きく変わりました。
厚生労働省「雇用における男女の均等な機会と待遇の確保のために / 男女雇用機会均等法について」
社会の変化と歯車がかみ合い始めました。冷蔵庫、二層式洗濯機、固定電話、自家用車、冷暖房、が行きわたり、家事を「まとめる」ことが可能になりました。女性たちは、昭和前半には必須だった毎日1回の買い物から開放されました。コンビニやファーストフード店が地方にもでき始め、大型スーパーが出店、弁当や総菜を利用することも可能になりました。
家事に柔軟性が生まれ、大学卒業後、就職し、結婚して、子を産み、子どもが就学した後、就職することが可能になりました。
すこしずつ、女性がラクに生きられる社会になっていくはずでした。
しかしながら、掲示板やSNSの情報を見る限り、今度は、新しい形の経済DVが出現しています。
独身時代に貯金に励み、結婚後も妊娠までは働く女性が増えました。その経済力に依存する夫が出始めているようなのです。
出産して育児休暇をとり、収入が低下するか途絶えると、妻の生活費を夫が負担しなくなるというものです。妻は結婚後の貯金で生活をし、不足すると、独身時代の貯金を切り崩します。子を保育園に預けて職場復帰した後も、妻と子の生活費や教育費はそのまま妻が負担する形になります。
そして、仮に妻が子を連れて離婚しても、じゅうぶんな養育費は期待できないのです。
もちろんその逆で、妻からの経済DVに悩んでいる男性もいるでしょう。収入をすべて共通口座に入れて妻が管理し、昼食代に事欠いている夫もいるはずです。とはいえ、経済DVで困っている割合は、出産経験のある女性に多そうです。その割合はわかりません。冷静な話し合いができず、体格と腕力でかなわない相手に対しては、沈黙して耐えることが、自身や子や親きょうだいの「生命」を守る一方法だからです。結婚することによるリスクは、少子化に拍車をかけかねません、実態調査と対策が必要でしょう。
譲り合い、支え合って、倒れては起き上がり、それでも歩いていくしかない
では、女性はどのようなライフプランなら、幸せになれるのでしょうか。
これは、人それぞれというしかありません。どのような暮らしに幸福を感じるのか、他者が推し量れるものではありません。
結婚したからといって、必ずしも、子をなさなければならないわけではありませんし、結婚自体も必須ではありません。
個体差を生かし、能力を最大限発揮でき、多様な生き方が受容される社会、老若男女問わず、余力のある人が、困っている人を、可能な限り支える社会であれば、多くの人に利益があるのではないでしょうか。
たとえば、(名前を出すのは申し訳ないのですが)、プログラマーの浮川初子氏。研究開発一筋の人生をおくっておられるようです。
昭和の時代、瀬戸大橋もしまなみ海道もなく、四国が陸の孤島だった頃。本州に渡るには旅費も時間もかかり、進学を希望する女子学生の多くは、四国内の国公立大学に進みました。初子氏は、愛媛大学工学部で学び、同窓の浮川和宣氏と結婚しました。自らもエンジニアであった和宣氏は、初子氏の才能を見込んで、エンジニアではなく経営者の道を選び、その開花を支えました。だからこそ、日本語処理機能は生まれたのです。
和宣氏が、女性は専業主婦になって夫を支えるべきだ、といった考えに囚われていなかったからこそ、日本の技術史は大きく前進したといえるでしょう。いまAIは、言語の壁を超える役割を果たすために進化しようとしています。浮川夫妻のこれまでの功績の上に築かれるであろう技術が、いずれ日本を照らすのではないかと、筆者は想像しています。
ふたりで人生の成果を挙げるには、それぞれの能力を生かす姿勢がもとめられます。
男性は、相手の女性が、仕事で人生の成果をあげたい人であるならば、専業主婦になることを強いず、手を取り合って人生を共に歩けばいいのではありませんか。
仕事も家事も育児も両立したい人であるなら、冷静に話し合って、分担すればよいでしょう。
妻が専業主婦として後方支援を担い、育児に専念したい人であるなら、男性は全力で家計を担えばいいのです。腹をくくって大黒柱を務めるのです。逆に、男性が家事を担いたい人で、その適性があるのなら、女性が大黒柱になってもよいのです。もっとも、子を持つなら、出産後の回復が遅れるリスクは想定しておかなければなりません。
子が難病だったり、病気や事故の後遺症に見舞われたり、療育が必要であるなら、また、どちらかの親に介護が必要になったなら、真摯に向き合って、解決策を見いだす必要があります。
人間は不完全で、どこかしら欠けています。病気や事故や災害が、突然襲い掛かります。老衰で寿命を迎える場合ですら、本人の意思には関係なく、抗うことができない力に、生かされているかのようです。われわれは、人生の時間を互いに提供し合い、譲り合い、肩貸し合って、よろよろと歩いていくしかないのだろうとおもいます。
インターネットで発信している年配女性は多いとは言えません。過去の不足する部分を補う必要があります。しかし、これを若年者が行うと、聞きかじりや想像や不完全なAIの回答が混じり、誤った情報になってしまう可能性があります。実際のその時代を生きてきた年配者が補うことで、情報の偏りを避けることができるでしょう。年配の女性は、ぜひ発信してください。
(前掲の写真は、筆者の祖父母。結婚直後に撮影したようです。祖母は身長が140cm台で、背が低いことを、生涯気にしていました。祖父は帽子をたくさんコレクションしていたそうです。若くして髪がさみしくなったからだそうです。)