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株式会社インフラコモンズ代表取締役の今泉大輔が、現在進行形で取り組んでいるコンシューマ向けITサービス、バイオマス燃料取引の他、これまで関わってきたデータ経営、海外起業、イノベーション、再エネなどの話題について書いて行きます。

2001年の「上海経済ツアー」:第七章 上海リッチピープル

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上海はそもそもがコスモポリタンな街なんですね。東京が比較対象にならないぐらい濃密な国際都市としての歴史を持っています。なので、太平洋戦争や文革のような辛酸を嘗めることはあったけれども、そうした枷がはずれてみると、この街本来の国際都市の底力のようなものが躍動してきます。日本を代表する企業のいくつかが上海に本社を移すようなことがあってもよいと思います。北京政府とは一線を画した自治精神のようなものもありそうですしね。ご飯はおいしいし。

参考リンク:
2001年の「上海経済ツアー」:プロローグ
2001年の「上海経済ツアー」:第一章 上海で誰に会うか
2001年の「上海経済ツアー」:第二章 都市計画が作り上げる街”上海”
2001年の「上海経済ツアー」:第三章 上海で暮らす
2001年の「上海経済ツアー」:第四章 上海B株企業を取材してみた
2001年の「上海経済ツアー」:第五章 彼と彼女は日本が好き?
2001年の「上海経済ツアー」:第六章 親の世代と子の世代

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■■第七章 上海リッチピープル

■路上もカジュアルレストランも

 大都市上海ではレストランめぐりを楽しむことができる。カジュアルな四川料理レストランがあり、懐石風ヌーベルシノワーズを出す居心地のいい店がある。小じゃれたタイ料理レストランも試した。アンティークショップに併設されたシックなイタリア料理屋にも行ってみた。インテリアにそこそこ気を使っている店の雰囲気はカジュアルから高級系まで、東京と比べてもまったく遜色がない。ニューヨークのソーホーにいるのではないかと思えるほどの無国籍レストランもある。
 ただ、味に関しては、オーソドックスな西洋料理は避けた方が無難かも知れない。舌がまだできていないらしく、味のポイントがぼけがちになる。
 試して間違いがないのはやはり中華。そして東アジア圏のエスニックである。中華と一口に言っても、広東、北京、四川、上海の四大料理以外に、蘇州、杭州、楊州、紹興、寧波、台湾、イスラム等々あり、すべて独自のテイストと方向性を持っていると考えて間違いない。それだけバリエーションが楽しめる。
 ガイドブックで探していくよりも、街路を歩いている際にやたらと賑わっているか、店の構えにピンと来るものがあったらチェックしておいて、後日試すのがいいと思う。レストランに詳しい現地の友人・知人がいれば言うことなしである。まったく当てがない場合は、欧米人の出入りするホテルに行って英文フリーペーパー「Shanghai Talk」を入手し、巻末のレストランリストで探すとよい。上海で食べられる全ジャンルの推奨店が載っている。
 あと、上海では小龍包<しゃおろんぱお>や包子<ぱおず>(肉まん)の類が早朝から食べられる。その他、大餅<たーぴん>という信州の“お焼き”に似た揚げパン。クレープ状の生地にねぎなどの具をくるくる巻いて頬張る葱油餅<●●ゆーぴん>など、朝の街角で食べる小麦生地系がやたらとうまい。おばさんが丸い鉄板の上で薄く生地を延ばしているのを見かけたら、それが葱油餅だから迷わずトライするといい。生春巻きの10倍ぐらいおいしい。

■ヤングアーバンリッチのPark 97

 上海には明らかに“リッチ”とわかる人たちがいる。まず、着ているものが違う。ごてごてとブランド品で身を固めているわけではなく、何と言うか、趣味がいい。シンプルだがシルエットの美しいものを、うまく組み合わせて身にまとっている。スタイルは元よりよい。
 それと、顔立ちが晴れ晴れしている。映画スターのように、と言っても過言ではない。育ちがよさそうでもあるし、“福”がいっぱいありそうでもある。一見してすぐに「あ、リッチ」。そういう感じだ。内装のきちんとしたレストランに行くと、そうした人たちが必ず何組かいる。
 一部は香港か台湾からやってきた富裕層だ。過去数年、香港・台湾の個人や企業が資本をいっぱい持って上海にやってきた。工場移転などで来た関係者も含めると、上海の台湾人は30万人に上ると聞いた。香港人は言葉のハードルがあるからか、それよりはぐっと少ない。(注:台湾人の母語・北京語は中国本土の標準語。それに対して香港人の母語・広東語は上海人にはまったく理解できない。)彼らの一部が本当のお金持ちである。無論、上海で手広く事業をやっている。
 一般に上海人は見栄っ張りなところがある反面、ハングリーさに欠けると言われる。えてして都会人はそういうものだ。上海でがんばっているのは大多数が“外地人”、すなわち上海以外の土地からやってきた人だと事情通の方から聞いた。小売や飲食の小さな店から始めて、努力一本槍で事業を大きくしていく。改革開放以降、そうして財を成すことができるようになった。その一部が近年の上海経済の沸騰ぶりに乗り、年々富裕層の厚みを増している。
 プチリッチではなく、本当のリッチ。そういうマーケットが上海には確実にある。彼らのバイイングパワーは相当なものだ。
 2001年にオープンしたPlaza66は欧米主要ブランドがすべて揃った商業集積である。シャネルもプラダもグッチもフェンディも全部入っている。普通ならデューティーフリー系でしか成立しない集積だが、それが旧市街の南京西路<なんじんしーるー>にあって、内外のリアルリッチを待っている。ビル自体も66階の高層棟と低層棟が組み合わさった非常に瀟洒なデザインだ。なお、2002年に似たようなブランドを多数揃えた大型免税店が上海市内にオープンし、これはこれで日本の観光客でにぎわっている。
 リアルリッチとはやや客層がずれるが、浦西・復興公園内にあるPark 97という複合レストランがおもしろい。それぞれ別な名前を持った正統派西洋レストラン、ニューヨーク風レストランバー、スノッブなクラブなどが1つの棟に集まっており、別々な入り口から入るのだが、中で各店を行き来できるようになっている。
 ここに夜な夜なヤングアーバンリッチが集まる。みんなおシャレだ。美男美女も少なくない。「南青山あたりのレストランでスカした気分」をイメージしていくと、おそらく面食らうだろう。本物なのだ。
 無論、西洋人も多い。上海を“HIP”と考える西洋人はかなりいるようで、そのHIPさをこういう場所に求めてくる。けれども、7割方は中国本土か香港か台湾の人たちだ。
 香港には一度しか行ったことがないので確信を持って言えないが、香港のこの手の店にはある程度、ローカリティが漂っているように思う。その点、上海は元々がコスモポリタンな街であるから、こういう店にそのコスモポリタン性が強く出る。ニューヨーク・ラファイエット街のシックなレストランにたまたま東洋人の客がたくさん入った。そういう雰囲気が漂う。

■上海アズナンバーワン

 渋谷駅前のマークシティは高層の東棟、西棟があって、そこそこの存在感がある。同程度の高さと敷地面積を持った高層マンションが7棟、さらに十数階の低層棟が1棟。それらが渋谷駅から徒歩五分の緑がふんだんにある区画に建っているとする。文句なく超ド級の物件だ。それがまさに形になりつつあるのが徐家匯<しゅーじゃーふい>に建設中の超豪華マンション、亜都国際名園である。何度か述べたように、徐家匯は交通の便から言っても、商業集積の様子から言っても、渋谷という形容がぴったりの街である。
 ここのコンセプトはなかなか興味深い。アジアの大都市をすべて集めようということで、それぞれの高層住居棟には東京座、香港座、バンコク座、台北座といった名前が当てられている。そしてその中央に上海座がある。上海アズナンバーワンをはっきりと主張しているわけだ。これには唸ってしまった。設計はフランスの事務所だが、コンセプトはデベロッパー経営者によるものだろう。悔しいことに、こういうコンセプトが張りぼてに感じられないのが今の上海だ。
 上海の高級マンション販売オフィスには、たいがい、非常に精巧に作られた建築模型がある。亜都国際名園にもそれがあった。自分の身長ほどもある超高層の住居棟が林立している様はかなり迫力がある。思わず見とれてしまった。「ぜひとも取材せねば」と思い、劉さんに申し込んでもらったが、軽くあしらわれてしまった。まったく上海では企業取材が難しい。
 ブロードバンド完備、ビデオオンデマンドあり、ケーブルテレビ無論、各種クラブ設備充実、敷地内公園に池・東屋あり…。価格は浦西中心部の高級住宅街・淮海路の3LDK、128平米、145万元から推計すると、同面積の標準タイプが200万元あたりだと思う。日本円で約3,000万円だ。購買力平価を勘案すると1.5億円の物件ということになる。こういうのを買う層が存在し始めているのである。

■「新天地」には続きがある?

 亜都国際名園のさらに上を行く再開発プロジェクトがある。浦西中心部・淮海中路<わいはいちゅんるー>に形を現しつつある「新天地」<しんてぃえんてぃぇ>だ。
 仕事か観光で上海に行く機会があれば、誰彼構わず「どこかおもしろいところはない?」と聞いてみるといい。今なら、ほぼ間違いなく「新天地」という答えが返ってくるはずだ。
 上海の人たちの間では、新天地は上海中心部にできたおシャレな飲食店の集積として認識されている。そこに行けば、最上級の飲食空間が体験できるということで薦められるわけである。最近は日本の女性誌で取り上げられることも多い。レストランバーを2回、クラブを1回試したが、悪くなかった。客層も内装もスタッフのサービスも、文句なく他の国際都市と同等の水準に達している。日本人が細かいところであらを探すと色々指摘できると思うが、まずは楽しむべきだ。
 入手した資料によると、20棟前後の低層の建物に西洋レストラン8、中華レストラン6、日本レストラン2、バー・ビアパブ2が入居しており、さらに2つのライブハウス、ハイソな家具・美術・雑貨店が8、スターバックスや高級ベーカリーなどもある。はずしていそうな店は一軒もなく、すべて代官山あたりのコンセプチュアルな服飾・飲食集積に入居している店と同レベルと考えて間違いない。全体としては、それらの棟によって街路や路地が構成されるという設計になっている。
 その街路と路地を歩いていると、やや不思議な感覚に襲われる。路面は石畳であり、各棟は渋いレンガ造りである。西洋の古い町を再現したのかとも思えるが、それにしてはにわか作りの不自然さがない。

 最初の上海訪問から帰ってきて、新天地に関してウェブで資料を漁っていると、プロジェクト全体の完成予想図が見つかった。それを見ると、今「新天地」と呼ばれているエリアは敷地全体のほんの一部、ヘソのようなものに過ぎず、それを囲むようにして近代的な高層ビルが林立している。これは何だということで、ぜひとも取材したいと考えた。
 劉さんの骨折りが奏効して、新天地プロジェクト全体を仕切る香港のデベロッパー瑞安集団の取材がOKになった。日が合えば上海にやってくるグループのオーナーが対応すると言う。帰国予定を2日延ばして話を聞かせてもらった。

■共産党と石庫門

 瑞安集団は新天地の敷地内に事務所棟を持っている。往時の租界をしのばせる西洋邸宅風の造りだ。劉さんと私は二階のゲストルームに案内された。和洋折衷ならぬ中西折衷で統一された、トラディショナルな雰囲気のある部屋だった。天井が高くて気持ちがいい。黒檀製の大きな丸テーブルを囲んで瑞安集団のプレス担当、日本企業担当、上海マネジャー、それと劉さん、私が座ってみると、いかにも“おでまし”を待っている感じになった。
 ほどなく瑞安集団のチェアマンが現れた。ヘンリーネックの白いシルクのシャツに襟なしの黒いジャケット。「うーむ、これが香港のお金持ちかぁ」。とても53歳には見えない。
 ヴィンセント・H・S・ロー。中国名・羅康瑞。小さな建設会社から始めて建設資材、不動産開発、セメント製造、総合貿易などへ事業を広げ、一代で瑞安集団を築き上げた。97年には香港証券取引所に上場している。同集団のデベロッパー部門は中国本土の不動産開発に力を入れており、上海ではホテル城市酒店、大規模マンション瑞虹新城(1万6,000戸)、高層商業ビル瑞安広場の実績がある。
 彼は新天地を1つのストーリーとして説明した。
 1985年に上海に来た際、共産党の下部組織、中国共産主義青年団の幹部らと交流する機会があった。同世代なので意気投合して「何かやろう」ということになった。80年代後半に浦西の土地を割り当ててもらい、城市酒店を建設して開業させた。これが成功を収めた。
 90年代前半、羅氏は香港の不動産開発事業を拡大させたいと考えたが、土地が高騰している。そこで力点を上海に移すことを決めた。上海にはまだ不動産投資ブームが来ていなかった。
 その頃、上海市政府は旧フランス租界の淮海路近辺にたくさん残っている古い住宅を何とかしたいと考えていた。城市酒店の実績を見込んで市政府は共産主義青年団を介し、羅氏に声をかけた。「何かいい案はないか?」
 上海市政府は古い住宅を撤去すべきかどうか、非常に気を揉んでいた。古い住宅を壊して新しい住宅にするだけでは、再開発としての意味がない。また、全部壊してしまったら昔の上海が消えてしまう。さらに、このエリアには共産党が第一回党大会を行った会堂が残っており、その保存も考慮しなければならない。
 ここで上海固有の集合住宅様式「石庫門」<しぃくぅめん>について説明しておこう。
 1850年、清朝に叛旗を翻して太平天国の乱が起こり、一派は上海にも乱入した。当時すでに英米仏の租界が設けられており、騒動を嫌った上海住民の多くは租界内に難を逃れた。騒乱がうち続くなかで、租界の上海住民は定住を考え、集合住宅を作り始めた。無論、安全には最大限に配慮しなければならない。
 日を追ううちに、間口の狭い石門とそれに続く狭い通路、レンガ造りの棟を密集させた構造、奥に入ると陽の当たる中庭があるという様式が定まった。イスラム圏や欧州の都市で見かけそうな造りである。設計を行ったのは当時、租界で営業していた西洋人経営の設計事務所だったと言う。これが後に石庫門と呼ばれるようになった。最盛期には上海人の60%もが石庫門に住んでいたと言う。上海では、中西折衷様式の典型として認識されている。

■池のほとりの私のお家

 羅氏は米国の設計事務所Wood and Zapataとともにプランを練った。再開発の対象になる土地は52万平米もある。上海市は元々浦西の東側と浦東の西側を円で囲って「中央商務区」として発展させる計画を持っていた。陸家嘴もこの円に含まれる。羅氏はこの再開発地区を、中央商務区の浦西側における目玉にしたいと考えた。
 商務区であるから高層の商業ビル群が要る。これと対を成す高層マンション群を建てれば職住接近が図れるだろう。石庫門の古い住宅はどうするか?飲食・商業ゾーンを設け、石庫門の集合住居を改修・移築してテナントに入ってもらえばよい。アウトラインは羅氏が描き、細部を設計事務所が作り込んだ。
 この企画案が通り、淮海路の再開発プロジェクトは羅氏の瑞安集団がすべて仕切ることになった。名称は「上海新天地」。52万平米もある大プロジェクトだ。森ビルが六本木地域で進めている六本木ヒルズも相当な大型案件だが、これが11万平米だから、新天地の規模がいかに大きいかがわかる。
 97年、飲食・商業ゾーンから建設に着手した。約3万平米に20前後の建物を配置し、全体を整えるのに約200億円(日本の1,200億円相当)かかる。最初は誰も資金を貸さなかった。周囲の友人からは「おまえはアホか」とも言われた。
 だが、彼には勝算があった。2001年にはAPECが上海で開催されることが決まっている。また、その年は共産党創立80周年でもある。オープンが間に合えば、敷地内に第一回党大会会堂がある「新天地」は放っておいてもメディアの注目の的になるだろう。
 最初の1年は何とか自前で資金を手当てしつつ、計画通りに建設を進めた。そのうちに銀行が融資に応じるようになり、2001年半ばの開業メドがついた。
 テナントはぜひ世界一級の店舗を集めたいと考えた。欧米や東南アジアなどに視察チームを出し、トップクラスの企業をピックアップした上で、瑞安集団側から提案書を出した。上述のようなテナントが彼の意図に共鳴して集まってきた。
 2001年9月、新天地はオープンした。記念イベントにはジャッキー・チェンを初めとする中国語圏のスターが勢ぞろいし、非常に賑やかなものになった。内外のメディアがこぞって紹介し、上海っ子の誰もが憧れる先端ゾーンとして認知されるようになった。
 羅氏は言う。「儲かるかどうかという視点だけでは、こうしたプロジェクトはうまく行かない。理念が必要だ。私の場合、『いい街を作りたい』、ただそれだけを考えた。いい街を作り、いい環境ができれば、テナントは自然に潤う。そうすればわれわれも儲かる」
 「子どもの世代のことを真剣に考えた。上海の未来は彼らが築く。彼らが暮らすのに理想的な街とはどんなものか。みんなが一緒に永続的に繁栄できる街でなければならない」
 おそらく、香港にいる自分の子どもたちと、上海で育っている同世代の子どもたちとが一緒に何かをやっていく様をイメージしているのだろう。
 話を終えた後でわれわれは下のロビーに移り、新天地の全体像を示す模型を見せてもらった。池のある公園と飲食・商業ゾーンが中央にあり、それを挟むように商業ビルゾーンと高層マンションゾーンが配置されている。マンションの完成は数年先だが、最高級物件にはすでに買い手がついているという。羅氏は池のほとりに建つ1つの邸宅を示し、「これが私のだ」と笑った。

■当面のクルマターゲットは中間世代

 文革世代は前述したように、やや苦しい立場に置かれている。一人っ子世代は年長者がまだ22~23歳にしかならない。上海人で見かけるお金持ち風の人たちは、見たところ30代半ば~40代前半である。彼らは非文革世代、非一人っ子世代であるから、「中間世代」とでも呼ぶほかない。
 おそらくこの中間世代が、改革開放以降の経済発展を一身に担ってきたのだろう。企業にいれば中間管理職になっている、商売を手がけていればそこそこの規模に育っているという世代である。リアルリッチではないとしても、やや富裕なミドルクラスと位置付けられる世帯が少なくないように思う。
 漕渓路の部屋を貸してくれたウさんもその世代に属する。入居当初、ウさんのお姉さんのお世話にもなったが、彼女もそうだ。持っている財布がヴィトンだったのを覚えている。あまり褒められないが、100元札がうなっているのを見てしまった。聞けば旦那は商売をやっていて、豪勢な邸宅に住んでいるのだと言う。
 一人っ子世代の可処分所得にはまだ限りがあるから、徐家匯の亜都国際名園や新天地にこれから建つマンションの中級物件の販売対象は、この中間世代だと見なければならない。
 WTO加盟を契機に、日本の自動車メーカーの中国進出もようやく本格化してきたが、当面、クルマを売る対象も中間世代になりそうである。
 上海で乗用車と言えば、ほとんどがVW系のサンタナのタクシー。それ以外で目立つのは、GMのビュイックとホンダのアコードといったところ。いずれも現地生産の車種である。
 前述したが、劉さんの解説によれば「みんな輸入車の関税が安くなっているのを待っている」のだそうだ。このコメントは、現在進展しつつある欧米日自動車メーカーの現地生産を考慮したものではないから、現地生産で値ごろ感のある車種がどっと供給されるようになると、購入が一挙にブーム化する可能性がある。
 ラグジュアリー系はビュイックが押さえつつあるように見えるから、子どもや祖父母と一緒に遠出ができるワンボックスカーの手ごろなのを投下すると、かなり行けるかも知れない。100km、200kmをドライブして遊ぶという習慣がまだないマーケットである。モータリゼーションはこれからなのだ。
 旺盛な消費意欲を持った一人っ子世代がクルマの顧客になるまで、まだ10年ある。李栄歓君は、「30ぐらいで買いたいけど、実際は35ぐらいかな」と言っていた。日本の自動車メーカーの奮闘に大いに期待したい。



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