PQC市場を牽引する「Hot Tech Innovators」
ABI Researchは2025年7月11日、ポスト量子暗号(PQC)に関する知的財産(IP)市場で革新的な取り組みを行う8社を「Hot Tech Innovators」として発表しました。対象となったのは、IPコア、ライブラリ、ソフトウェア実装など、PQCの商用化を支える基盤技術の研究開発を主導する企業です。
背景には、2024年に米国標準技術研究所(NIST)が新たなPQC標準を発表したことがあります。これにより、長年にわたり標準化作業と並行して製品化を進めてきた企業にとって、商業的な展開の扉が開かれました。量子コンピュータが既存暗号を突破しうる「暗号的に関連性のある」時代の到来を見据え、企業や半導体メーカー、OEMは次世代デバイスへの安全な暗号統合を急いでいます。
今回の発表は、標準準拠ライブラリや高度な暗号管理プラットフォーム、半導体向けハードウェアIPなど、幅広い技術分野で突出した成果を示す企業を網羅しています。
今回は、ABI Researchが評価した8社の特徴、PQC市場の動向、そして日本企業やグローバル市場への展望について取り上げます。
エンタープライズ分野で存在感を示すソリューション企業
CryptoNext Securityは、標準化されたPQCライブラリやフレームワークに加え、企業の暗号資産の発見・移行を支援する包括的なプラットフォームを提供しています。同社のライブラリはすべてNIST CAVP認証を取得しており、既存システムへの統合を円滑に進める環境を整えています。
同様に、InfoSec Globalは暗号資産管理とオーケストレーションに特化したプラットフォームを展開。AgileSec SDKを活用することで、従来暗号とPQCの双方を企業アプリケーションに統合可能です。2025年にはKeyfactorに買収され、同社のPKI・証明書ライフサイクル管理(CLM)ポートフォリオに組み込まれました。
通信・アプリケーション分野での先行事例
PQ Solutionsは、10年以上の研究開発実績を背景に、VPNソリューション、メッセージングアプリ「PQChat」、ID認証技術「Nomidio」など、PQC対応アプリケーションを既に商用展開しています。すべての製品に高度な暗号技術とコンプライアンス機能を搭載し、企業利用を想定した完成度を誇ります。
半導体市場を狙うハードウェアIPプロバイダー
PQShieldは、組込みから高性能用途まで幅広く対応するハードウェア・ソフトウェアIPとSDKを提供しています。同社の「PQCryptoLib」ソフトウェアIPは、NIST CAVPとFIPS 140-3 CMPV認証を取得しており、業界内でも先行的な事例です。
PQSecure Technologiesは、半導体統合における豊富な経験を持ち、防衛グレードのアプリケーションにまで対応可能なソフトウェア・ハードウェアIPコアを展開。すでに多くのライブラリがNIST CAVP認証を取得しています。
セキュアエレメント統合とカスタムIP
Secure-IC(現Cadence Design Systems)は、カスタマイズ可能なIPブロック、セキュアプロトコルエンジン、完全なセキュアエレメントを提供。なかでも「Securyzr」シリーズは標準化PQCアルゴリズムを全搭載し、アルゴリズムレベルで世界初のNIST CAVP認証を取得しました。
PureハードウェアIPのXipheraは、「xQlave」ファミリーとして2種のPQCコアを提供。FPGA向けに高効率化された実装を特徴とし、ASICへの移植性も確保しています。
新しい暗号提供モデル
Quantropiは、PQC非対称・対称実装を提供する「QiSpace」プラットフォームに加え、「Entropy-as-a-Service」という独自サービスを展開。MASQライブラリには、NIST承認標準と、制約環境向けの独自実装の両方が含まれています。こうした柔軟性は、多様な環境でのPQC導入を可能にします。
市場多様化が進むPQC移行の現実
PQCの移行は、暗号資産の多様性ゆえに膨大なアルゴリズム・プロトコル実装を必要とします。金融、通信、製造、防衛など、業界ごとに求められる性能要件や規制条件が異なるため、単一ベンダーによる「ワンストップ移行」は現実的ではありません。結果として、複数の専門ベンダーが分野ごとに協力・競争する市場構造が形成されつつあります。
しかし、PQCは高度な専門知識を要する分野であり、標準準拠だけでなく実装の最適化や長期的な運用性を見据えた設計が不可欠です。今回選出された8社はいずれも、その専門領域で突出した技術力を持ち、市場の信頼を獲得しています。
今後の展望
ポスト量子暗号の本格導入は、標準化の進展とともに加速すると見込まれます。特に、NISTの追加標準発表や各国政府のガイドライン策定が進めば、金融機関や重要インフラ事業者など規制産業での採用が一気に広がる可能性があります。
一方で、PQC移行には既存インフラとの互換性確保、性能劣化の最小化、セキュリティ検証の徹底といった課題が残ります。これらに対応するため、半導体メーカーはハードウェア実装の最適化を進め、ソフトウェアベンダーは開発者向けSDKや統合プラットフォームの高度化を図ることが求められています。
今後は、日本企業にとっても重要な参入機会が訪れると考えられます。通信機器メーカーや車載システムベンダー、IoTプラットフォーマーなどは、自社製品へのPQC統合を前倒しで進めることで、グローバル市場での競争力を高めることが可能です。PQCは単なるセキュリティ対策ではなく、次世代の産業基盤の信頼性を支える中核技術として、長期的な視野での戦略構築が求められています。