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計算機製アートの席巻する日 ~メルマガ連載記事の転載 (2012年8月20日配信分)

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この記事は、メルマガ「デジタル・クリエイターズ」に月1回連載中の「データ・デザインの地平」からの転載です。

連載「データ・デザインの地平」
第21回「計算機製アートの席巻する日」(2012年8月20日配信分)

創作の自動化、歓迎する人々

前回、時空倫理学の必要性について述べましたが、今回も、倫理について語らなければなりません。創作上の倫理問題を引き起こすニュースが飛び込んできたからです。

そのニュースとは、ご存知のことと思いますが、「文壇オワタ...クラウドソースの官能小説もどきが堂々iTunesベストセラー入り」」です。

これまでも、文学に限らず絵画やマンガや歌などを計算機に生成させる試みはありました。とはいっても、それらは、どちらかといえば、作りたいけれども制作技術を持たないユーザー、つまり作る側に対するサービスでした。
ところがついに、観賞する側に対して、商業ベースでの作品販売が、大手を振って実行されたのです。ニュースを見る限り、成果もあげている模様です。

計算機による製品とヒトによる創作物を同列に扱うことは、越えてはならない一線でした(もっとも、必ず試みる人は現れます)。牛丼やジーンズの安売りと同じで、一度それが仕掛けられると、あとはなし崩しになるからです。
この作品にユーザーが満足すると、計算機が作ったものでも十分、という下地ができてしまうといっていいでしょう。

音楽についても、そのときどきのユーザーの気分に合う楽曲を、計算機が生成して提供するようになります。そもそも、以前の記事(第7回「脳活動センシングの進化が、作曲を変える」)で触れたように、計算機とBMIによる作曲は必ず実現するのですから、不思議なことではありません。

プログラミングも、計算機による代行が増えていきます。プログラムによってプログラムを生成することは当たり前に行われていることであり、その範囲が拡大するだけです。ヒトの作業は、数学と、計算機の管理にシフトするでしょう。

デザインについても、色と形とレイアウト位置の組み合わせですから、計算機がとって代わることは可能です。写真やイラストもしかりです。

ユーザー受けのよい、計算機が生成する感動

さらには、商用のポピュラーな作品ではなく、深い精神活動を表現する分野にも、影響は及びます。
たとえば、詩です。

英詩人アレキサンダー・ポープ言うところの
True wit is nature to advantage dress'd,
What oft was thought, but ne'er so well express'd

「日常を、誰も考えつかなかった巧みな表現でイメージさせる」タイプの詩であれば、計算機は類似のものを生成できます。
英詩でいえば、トーマス・トランストロンメル氏(ノーベル賞詩人)の比喩そのものを生みだす確率はゼロに等しいとしても、何万回何億回と膨大な処理を繰り返せば、その中でひとつくらいは、トランストロンメル氏が書いたかのように錯覚させることのできる詩を生成できる可能性はあります。

計算機は、あたかも、深淵を覗いたかのような言葉を、データベースから抽出して組み合わせることさえできます。イェーツやブレイクもどきの結果を出力することもできるでしょう。
英詩には韻律(metre, rhyme)という要素があるので、日本語詩よりも計算は困難ですが、それでも、膨大なデータベースが蓄積されれば可能になるでしょう。

そして、読者の何割かは、フェイクを見抜くことができないと思われます。困ったことに、むしろ計算機の出力結果の方が、詩人が書くものより、感動を生む可能性すらあります。なぜなら、計算機の方が個々の読者に寄り添いやすいからです。

計算機は、個々の読者の経験データベースを参照し、読者の気分をセンシングして、その時点でもっとも欲する詩を生成することにより、脳を感動した状態に変えることができます。(もっとも、作品を介してではなく、直接脳を刺激してインスタント感動を与える機器の出現も、そう遠くはないのですが)
読者の経験にシンクロする作品が生成されると、共感が生まれやすくなります。
さらに、読者の感動の状態をセンシングしてフィードバックすることにより、次回作のための学習が行われ、さらに品質が向上します。

それに比べて、詩人が個々の読者にヒアリングを行い、リアルタイムで作品を創って安価に提供することは、難しいといわざるをえません。

ヒト対計算機、ユーザーのプライオリティ

計算機の出力結果からは、それが私小説でもなければ、人となりは見えてきません。そうはいっても、ユーザー(読者や視聴者)は、アーティストの人間性よりも、作品を評価するケースが少なくないので、それは問題にならないかもしれません。。
なにしろ、この社会では、ハラスメントする一方で愛を歌い、家庭をないがしろにして社会を風刺したとしても、少々の不一致は許容されがちです。ネットユーザーの逆鱗に触れない限り、高校野球並みの厳格さは、こと大人たちにはもとめられていないようです。

評価対象が「人間性より作品」ならば、倫理観の欠如しているアーティストと、倫理観を持たない計算機が、類似の作品を提供したとき、ユーザーはどちらを選ぶでしょうか。ヒトの作品にどれほどの付加価値を認めるでしょうか。

ユーザーは、倫理観の欠如をも含めた「人間的魅力」を、アーティストに対してもとめるものなのだ、という意見もあるでしょう。アーティストの産みの苦しみこそが重要なのだ、という意見もあるでしょう。

たしかに、いくら感動を与えるデータを生成できたとしても、「現時点では」計算機には、感情はありません。
それはたとえば、ヒトと、ヒトそっくりの計算機(ロボット)が、事故でリハビリ中の同僚を見舞い、ヒトが悲しさや苦しさに共感して神妙に「がんばっていますね......」と言うのに対し、計算機が、ただ単にプログラムに従って同じ言葉を出力するようなものです。
計算機は、情報の記憶と学習で「感情を持ったかのように」表現することはできます。まるで、ゾンビ・アーティストです。

しかしながら、ユーザーの評価対象が、背景や場の雰囲気や文脈を伴わないテキストのみだとしたら、どうでしょう?
計算機が単純に処理したテキストであっても、その中に、ユーザーは、自らの感情を垣間見るのではないでしょうか。

アーティストが血肉を削るようにして作品を生み出そうと、計算機が何の思考もなく24時間稼働でデータを生成しようと、ユーザーは、過程より結果を重視するのではないでしょうか?
危険な労働は機械に任せ、ヒトは安全な場所で創造的な活動に従事する―――そのような未来は失われてしまったようです。

唯一ヒトに分があるのは「時間を超える」題材

ここで述べた「計算機」とは、スパコンの形をしているかもしれませんし、アンドロイドのような形をしているかもしれません。それは、金属や樹脂で作られた無機質な装置です。従来、哲学者や物理学者が思考実験で論じてきた計算機には、そういったイメージがつきまといます。

ところが、科学技術の発達はすさまじく、いまや、「プログラマからの逐一の指示がなくても」自発的に成長するシナプスを持つ有機物の計算機を、我々は想定することができます。その計算機がヒトと異なるのは、この世で初めて見る顔が産科医ではなく生物学者だということぐらいでしょう。
そのような計算機が、自発的な学習を行い、ユーザーを満足させるクオリティの作品を生成「したい」という意識を持ち始めることは十分に考えられます。

さらには、ミラー・ニューロンを備え、共感能力を獲得するに違いありません。クオリアも知るでしょう。
そうなれば、ゾンビ・アーティストの汚名は返上です。計算機は、抒情性、わびさび、ノスタルジアさえ、理解して生成するようになるでしょう。

そうなった暁ににも、アーティストが、アーティストであり続けようとするなら、「どう表現するか」よりも「何を表現するか」を重視しなければなりません。必要なのは、「再現」ではなく「表現」です。

では、何を表現すればいいのか―――表現する作品の題材には3種類あります。

1つは、五感によって取り入れた外部の情報です。景色を見て、景色を描写するといったものです。

2つ目は、内面に湧き出る情報です。憤怒、悲哀、愉悦、慕情、先に挙げた、抒情性、わびさび、ノスタルジア、などの感情を伴う情報です。また、夢や想像の産物です。

これら2つについては、計算機が代行可能になるでしょう。

ただし、3つ目、時間と空間を超える情報は、ヒトには取得できても、計算機には取得できないと考えます。
それは、プラトン的世界()にある情報への気付きと、時間を先取りして得られる情報です。このふたつの情報は、いずれも概念であって、取得の機序は同じ―――量子コヒーレンスがイベントハンドラとなり、戻り値は「言葉を伴わない着想」―――であると推測します(あくまで単純な推測)。
これらを取得して題材にできるのは、ヒトだけです。

この3つ目の要素がある限り、計算機はいくら進化しても計算機の限界を超えられず、いくらユーザーを感動させたとしても、それはユーザーの報酬系を満たすだけのものに過ぎず、それ以上のものにはならないでしょう。

もっとも、この3つ目の題材をもとめるユーザーの数が多いかどうかは別の問題です。ほとんど需要がないかもしれません。
多忙なユーザーは、1つ目と2つ目の題材を「できるだけ脳を心地よくしてくれる形に表現して、早く、安く提供してくれる」計算機の仕事に、十分満足するかもしれません。

 「プラトン的世界」についいては、ロジャー・ペンローズ著「皇帝の新しい心(The Emperor's New Mind)」「心の影(Shadows of the Mind)Ⅰ、Ⅱ」(林一訳 みすず書房)を参照。

ゾンビ・アーティストの引き起こす倫理的問題

現代のように、静けさが失われ競争を余儀なくされる社会では、感受性の高いヒトは生きづらさを感じます。感受性を下げることを厭わないヒトの方が思い悩むこともなく、多くの子孫を遺せる可能性が高まります。すると、その感受性を下げる能力が遺伝する可能性が高まります。そうこうするうちに、世代を重ねる度に、感受性の高いヒトの割合は徐々に減っていくでしょう。そして、ヒトならではの繊細な作品はますます隅に追いやられることになってしまいます。

すべての人々のニーズを満たすために、計算機の侵略は加速します。その結果、2つの倫理的問題が生じます。

まず、著作権の問題です。
計算機がアーティストを代行する場合、後見人のような形で計算機に関わるヒトの権利について解決されなければなりません。命令を書くプログラマや、自己成長型計算機の製造者が、どのような形で著作権を持てばよいのか、「作者と、その権利の範囲」を明らかにしなければなりません。

次に、共感能力を持つまでにヒトに近付いた計算機の作品の管理問題です。
この問題が最も危惧されるのは、いじめを行うヒトと同じ報酬系を計算機が持った場合です。ユーザーを傷つけるような作品を生成して垂れ流さないように、その管理方法については、しっかりと議論されなければなりません。
計算機の生成した作品が、ヒトの校閲を通さずに自動配信された場合、すくなくとも現時点では、あらゆるクローラーが回収済みのデータを一斉消去する方法はありません。もし、一斉消去のシステムが開発されたとしても、これを悪用して必要なデータを消去するヒトが出現しないとも限らないため、その利用は困難をきわめるでしょう。

このように、計算機による小説の試みは、"前向きでユニークで斬新な挑戦"と捉えるだけではすまない問題を、我々に投げかけます。
創作の倫理における問題は、計算機の進化にともない、これから徐々に表面化してくるにちがいありません。

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「データ・デザインの地平」バック・ナンバー
≪ 第1回 UXデザインは、どこへ向かうのか? (2010/12/20)
≪ 第2回 そのデータは誰のもの? (2011/01/24)
≪ 第3回 子ノード化する脳 (2011/02/20)
≪ 第4回 多重CRUDの脅威(2011/03/14)
≪ 第5回 震災は予知できなかったのか(2011/04/18)
≪ 第6回 永代使用ポータル、クラウドがつなぐ生者と死者の世界(2011/05/16)
≪ 第7回 脳活動センシングの進化が、作曲を変える(2011/06/13)
≪ 第8回 死にゆく者の意思は守られるか (2011/07/11)
≪ 第9回 Windows Phone 7.5 に見る"ヒトとコミュニケーションの形"(2011/08/29)
≪ 第10回 データ設計者は、ヒトを知れ、脳を知れ(2011/09/26)
≪ 第11回 設計者であるための、日々の心得(2011/10/24)
≪ 第12回 センサーの進化がユーザー・インタフェースを変える
≪ 第13回 プログラマ or デザイナから、"デベロッパー"へ(2011/12/05)
≪ 第14回 技術進化が促す、人類総デザイナー化(2011/01/16)
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