子ノード化する脳 ~メルマガ連載記事の転載 (2011年2月20日配信分) ~
この記事は、メルマガ「デジタル・クリエイターズ」に月1回連載中の「データ・デザインの地平」からの転載です。今月で10回目になりますので、まとめて載せています。
連載「データ・デザインの地平」
第3回 「子ノード化する脳」 (2011年2月10日配信分)
一意なものは、ほんとうに一意か?
将来、ヒトそのものがデバイス化するとき、「何を一意とするか?」は、データ・デザインにおける重要な課題となります。
一意なものに対する社会的な承認が揺らいだとしても、データ構造の差異を吸収して連携できるシステムが望ましいからです。
ところが、我々が捉えている「一意性」は、じつに漠然としたものにすぎません。
「一人のヒト」の脳には必ずひとつ、「私以外の何ものでもない私が存在している」ことを認識する「意識の座」があるのではないか?―――といったところではないでしょうか。
それでも我々は、「一人のヒト=1個のデバイス」となる未来を、積極的に疑うことはありません。
おりしも先月流れた「税と社会保障の共通番号制度」のニュースにも見られるように、「一人のヒト」の一意性には、社会的な承認があるからです。
しかしながら、将来的にも、「一人のヒト」は、「一意なもの」であり続けるのでしょうか?
ほんとうに、一人のヒトと、意識の座は、1対1対応なのでしょうか?そもそも意識の座は、脳にあるのでしょうか?
一人のヒトを複数の一意なものに分割できたり、一意なヒトが集まって、より大きな一意なものが生まれる可能性などないと言い切れるでしょうか。
前回は、「一意なものとは何か?」という「一意性の定義」を問いました。
今回は、次の5つのケースを挙げ、「一意なものは、ほんとうに一意なのか?」を問いかけてみます。
(1) 「一意なもの」の出現時期が特定できないケース
(2) 「一意なもの」が、立場によって異なるケース
(3) 「一意なもの」を観測できないケース
(4) 「一意なもの」が複数出現するケース
(5) 複数の「一意なもの」が結び付くケース
意識の座と一意なものは、1対1対応か?
(1) 「一意なもの」の出現時期が特定できないケース
まず、懐妊に喜ぶ、幸せそうな女性を想像してください。
いつから胎児は、「一意なもの」として社会的に承認され、「ひとつのデバイス」となるのでしょうか。
既に「一意なもの」として社会的に承認されている存在と切り離せない、別の「一意なもの」が出現するとき、いつから、それを「一意なもの」として扱うのが妥当でしょうか?
個体差がありますから、すべての胎児の脳分化を、第○週の○時○分時点と定めることは不可能でしょう。
母が胎児の一意性を認識した時点でも、また、(仮に検査機器が進化したとして)胎児が自己の一意性を示した時点でも、社会的に一意なものは母だけでしょうか。
もし、時間によって、一意か一意でないかを分けるのなら、「一人のヒトは一意なものであるが、社会的にはそれを『一意なもの』と見なさない時期がある」ことになります。
(2) 「一意なもの」が、立場によって異なるケース
「一意なもの」であった一人のヒトが、一生「一意なもの」として承認されるとは限りません。
問題点を分かりやすくするため、極端な例を挙げます。
ニューロエシックスの議論の末に、罪を犯したヒトへの投薬が行われるものと仮定します(あくまで問題提起のための仮定の話であって、筆者の考えとは無関係です)。そのヒトが、正反対の倫理観を持つヒトに変貌を遂げたとしましょう。現在の医薬品でも劇的な効果をもたらすものがあるのですから、荒唐無稽な話ではありません。
当人にとっては、投薬前の自分も、投薬後の自分も、連続した同一の「一意なもの」かもしれません。
しかし、裁判員にとっては、投薬前のヒトと、投薬後のヒトが、同一の「一意なもの」であるとは、にわかには認めがたいかもしれません。
一意かどうかは、世論によって変わりうる可能性があります。
(3) 「一意なもの」を観測できないケース
ヒトは存命中「私は一意なものである」と感じて主張し、社会的にも「一意なもの」として扱われます。
そして、亡くなった後には、「私は一意なものである」と感じたり主張することはなくとも、一人の物故者という「一意なもの」として扱われます。
しかし、死とは緩やかなものであり、この瞬間より前は生、この瞬間より後は死、というように境界線を引くことは難しいものです。
生と死の間のグレーゾーンでは、一意性は、曖昧に扱われることがありえます。
事故や病気などで死に瀕した経験があったり、死者を見送った経験のある人には自明でしょう。システムと人間を比較して述べることは賢明ではないかもしれませんが、まるで、世界との相対的な関係を監視する、緊急時のバックアップ・システムが働き、一意性を維持しているかのようです。
しかしながら、ヒトの意識のシーケンスを観測する完全な機器は、今のところありません。
ヒトが自身を「一意なもの」と感じとっていても、それを検知できなければ、一意性に対する社会的な承認は得られません。システム側では、両者の認識の食い違う空白の時間の処理が課題となるでしょう。
(4) 「一意なもの」が複数出現するケース
社会的には「一意なもの」であると承認されているヒトが、複数の一意性を感じて主張したなら、どの存在に一意性を認めるのが妥当でしょうか?
たとえば解離性障害などのケースです。
現時点では、複数の一意性を持つヒトのセットを「一意なもの」として扱っていれば、データ・デザイン上の不都合はないでしょう。
しかし、存在のデバイス化時代には、どのような場合にセットとして取り扱うのか、制約事項についての取り決めが必要になります。
(5) 複数の「一意なもの」が結び付くケース
「一意なもの」は、常に、単独で存在するとは限りません。不特定多数の「一意なもの」が結びつき、ひとつの大きな「一意なもの」となる可能性があります。
いまや、世界中の研究者や開発者が、ネットワーク上でコラボレーションを行っています。そこでは、「一意なもの」であるヒトの作り出した膨大な知が結びついています。
さらには、知のデータ同士が結び付くだけではなく、ブレーン・マシン・インターフェースの進化によって、思考する脳同士が直接「Join」されるようになるでしょう。
つまり、脳を含むヒト自身である「一意なもの」が、さらに大きく抽象的な『一意なもの』の子ノードとなるのです。
一人のヒトのシナプスがノードである時代が過ぎ、一人のヒトそのものがノードになるのです。
「子ノード化する脳」の時代の到来です。
前回、一意なものであるヒトのデータをXMLの木構造の中に押し込み、仮に、「存在とは、各個体の意識の座のある座標値を中心点とする拡がりのある場に属する情報のセット」として、拡がりの範囲(リーフノードに至る構造)を定義するとき、『私』はどこまで拡がるのか?という問いを発しました。
では、私の脳が子ノード化したとき、いったい、どこからどこまでが「私」、一意な存在の「私」、なのでしょうか。
「一意なもの」は「フュージョン」する
一意なものを問うとき、真っ先に問題となるのは、この「子ノード化する脳」です。
研究者Aさんの思考した結果のデータと、研究者Bさんの思考した結果のデータの結びつき、それは、単なる「コラボレーション」にすぎません。
しかし、研究者Aさんの思考と、研究者Bさんの思考が直接結びつき、その間でインタラクティブな神経学的な活動が起きるなら、それは「フュージョン」といってもよいものになります。
その結果は、Aさんのものでしょうか、それともBさんのものでしょうか、それとも、二人の脳を含む抽象的な親ノードのものでしょうか。
「コラボレーション」なら、複数の意識の座は、単なる「一意なもの」の集まりにすぎません。しかし、「フュージョン」では、融合した意識の座の境界は、きわめて曖昧になります。
子ノード化した「私」たちは、拡大しすぎて相対性を見失い、自らの位置すら分からなくなるかもしれません。相対的な眼差しのないとき、世界はどのように知覚されるのでしょうか。
意識の座の集合は、自らの存在を「一意なもの」として認識するのでしょうか。
問題は、これだけにとどまりません。前提条件が崩れると、論理は音を立てて崩れてしまいます。
もし、意識の座を、脳の一箇所にもとめることができないとしたら?
次回は、「ひとつの身体であると見なされるもの」が揺らぐ「多重CRUD」の問題について取り上げます。
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