時空倫理学(Space-Time Ethics)のススメ ~メルマガ連載記事の転載 (2012年7月23日配信分)
この記事は、メルマガ「デジタル・クリエイターズ」に月1回連載中の「データ・デザインの地平」からの転載です。
基本的に私は作業速度よりクオリティを重視するタイプで、いつもなら一言一句練って書いて何度もリライトするのですが、今回ばかりは、8月号以降ではなく7月号に載せることを優先したため、多少舌足らずです。ざっくりと、趣旨だけ読み取っていただければと思います。
連載「データ・デザインの地平」
第20回「 時空倫理学(Space-Time Ethics)のススメ」(2012年7月23日配信分)
ITの進化が変える「いまここ」
皆さんは、時間を知りたい時、腕時計や目ざまし時計を使っていますか?
時計の用途は、"時間を知る"こと以上に、ファッションやインテリアになってはいませんか。
また、皆さんは、自分の位置を確認したい時、"自分が見ている"紙の地図を使いますか?
"自分が見られている"GPS衛星を使うのではないでしょうか。
SNS とスマートフォンは、ヒトがいる時間と場所の意味を変えつつあります。
まず、時間と空間の情報が標準化されつつあります。時刻も位置も共通のデータをもとに計算されるので、それぞれの持つ時計や地図によって極端に情報が違うということはなくなりました。
また、時間と空間の情報は、受信するだけはでなく、発信されるようにもなりました。コメントを投稿したり写真を保存することによって、自分のいる時間や場所の情報が他者に対して発信されます。
さらに、携帯端末を常時身近に置くことによって、ヒトには四六時中、時間と空間の情報が従属するようになっています。
我々ヒトは、異なる時間に同じ空間にいる(元いた場所に戻ってくる)ことはできますが、同じ時間に異なる空間、同じ時間に同じ空間に(重なって)いることはできません。ヒトが占有している時空を表す「いまここ」の情報は、"社会的な意味で"「そのヒトを特定する」情報となります。
そして、我々が携帯端末を常時所持せずとも、自らの存在自体がデバイスと化した暁には、時間と空間の情報は、ヒトの一意性を決定付けるプロパティとなります。
時間と空間の情報は、望まずとも、不特定多数から入手可能になるでしょう。一人のヒトを一ノードとして、全国民、全世界の人々について、時間に沿って位置を追ってグラフ化できるまでに計算機の速度が向上すれば、その情報はビジネスや統治に利用されるようになるかもしれません。
操作される時間と空間
ヒトにとって重大な意味を持つ時間と空間の情報は、もちろん慎重に扱われなければなりません。
そのためには、それらの情報が意図して操作された結果、望ましくない状況を招くことのないように、倫理上の規定が必要になるでしょう。
ここでいう操作とは、たとえば次のような行為です。(ここでいう"ヒト"は同一人物で、付属する連番は、木構造でいうところの、"ヒト"シーケンスのインデックスに該当します)
過去の「時刻Aの、位置aに、ヒト1」がいた後、現在「時刻Bの、位置bに、ヒト2」がおり、未来の「時刻Cの、位置cに、ヒト3」がいると予測される場合、現在あるはずの情報は(A,a,1)と(B,b,2)です。
未来の(C,c,3)を知る別の人物が、個人の利得のために、当事者"ヒト"自身の意思には関係なく(C,c,3)を(D,d,3)になるように操作したり、現在の(B,b,2)が(C,c,3)になることを阻止するために状態を継続させて(C,b,2)にいたるよう操作したり、過去の(A,a,1)を(A,b,1)などに書き換えたりすると、当事者たるヒトと操作者以外の他者の目には、書き換えられた未来や現在や過去が、変わらぬ事実であるように映ります。
この人為的操作が、操作者以外のヒトに不利益をもたらす可能性はあるでしょう。
我々人類は、これまで何世紀にも渡り、共同体単位で「いまここ」を生きてきました。
科学技術の発展により可能となった時間と空間の操作は、既存の社会システムや常識には馴染みません。それは、倫理上の問題を引き起こしかねないのです。
起こりうる問題を洗い出すには、時間と空間をいくつかに分類して考えると、分かりやすくなります。
ピラミッドの下の段から順番に、物理学的時空(時空とはいうものの、時間に依存しない世界)、生物学的時空、社会的時空、データの時空、個体の時空、を重ねた図をイメージしてみてください。物理学的時空を基盤として生命があり、その生命が構成する社会があり、社会のインフラを担う情報システムの中で動くデータがあり、情報をフィルタリングして認識する脳を持つ個体があるという構造です。
それでは、具体的に、どのような操作が考えられるか、いくつかの例をあげてみます。
(1) 生命に従属する時間・空間情報の操作
日常生活でよく見られる例は、ヒトの誕生に関するものです。
生まれてくる子供の属性情報を事前に知って、親が行動を変えると、子に従属するはずだった時間と空間の情報が変わります。
また、卵子の凍結は、特定の女性に従属する時間の情報と、その女性の"卵子"という部分に従属する時間の情報を切り離し、卵子の現在の情報を未来まで維持させます。
存在の終焉にも、ヒトに従属する情報は操作されることがあります。高齢者の胃ろう、延命措置、脳死判定が、これに該当します。今後、「生者なのか死者なのか」を判断するための脳活動センシング技術が進化し、高精度の機器の測定機器が開発されるまでは、問題が噴出し続けることでしょう。
生と死の両方が往来するケースでは、より厄介な倫理上の問題が生じます。たとえば脳死者の出産です。母子は共通の時間を歩まず、「戸籍上」過去に存在した母から、未来の子が生まれることになりかねません。出産を推し進めるにせよ、中止するにせよ、いずれにしても判断を下した者は操作者として、苦い思いを抱えることになるでしょう。
(2) 社会における時間・空間情報の操作
この社会では、未来の予測情報を持つ者が、情報を持たない者に従属している時間と空間の情報を操作する可能性があります。操作する側と、操作される側の力関係によっては、倫理上の問題が生じます。
未来の予測情報といえば、円や株価、新製品のマーケティング情報を思い浮かべるかもしれません。もっとも、ビジネスでは、操作による倫理的問題は、限定的です。
倫理上の問題が顕著になるのは、内輪の最大幸福と、最大多数の最大幸福と、個人の利害が一致しない場合です。それを如実に表しているのは、先の原発震災でしょう。自ら望んであえて危険な方向に逃げる人などいるでしょうか。"未来"の情報を持つ人々は、持たない人々に従属する時間と空間の情報を、操作してしまったといえるでしょう。
(3) 情報システム上の時間・空間情報の操作
社会のインフラを担う情報システムで扱う時間と空間の情報の操作は、ささいなものであっても、我々の生活に大きな影響を与えます。
その操作は、何より、知的財産に影響します。なぜなら「先に」申請を受理されることが非常に重要であり、「時間」が特許取得や受賞や予算を決める重要な要素だからです。未来に申請されるはずの情報をいちはやく入手した者が有利になります。脳内情報をセンシングするシステムが開発された暁には、優秀な研究者の"申請予定の"思考を取得して利用する輩も現れるでしょう。
この問題は、創作活動においても同様です。作曲とは発見であり、早く見つけて発表したもの勝ちだからです(※参照:以前の記事)。
計算機の速度向上が、この問題をいっそう深刻にします。
いまや数学の研究でさえ、その一部を計算機が担い、多数の学者の脳のネットワークで解決される時代です。性能のよい計算機を使えば、それだけ早く、未来に見い出されるべき答えにたどりつけるかもしれません。量子コンピューターなんぞ登場した暁には、なおさらでしょう。
また、インフラも問題になります。
今後さらに多数の端末が情報にアクセスするようになるため(※注1)いかに速く未来の情報を入手し、結果を公開するかは、居住地域や経済事情に左右されることにもなります。
システム上の時間と空間の操作は、多数のヒトが日常的に使っているシステムでも「良い意味で」行われています。それは、トランザクションです。トランザクションとは、あるヒトにとっては時間を進め、他のヒトにとっては時間を一時的に停止させる操作ともいえるでしょう。
(4) 各個体に記録される時間・空間情報の操作
誰しも自らに従属する時間と空間の情報を、完全に記憶しているわけではありません。事実の一部しか認識していなかったり、情報が定着しなかったり、一部が取り出せなかったり、あるいは順序が逆になる、ということが、誰にでも起こります。それどころか、自身がいつどこにいたかという情報を記憶する作業を放棄し、スケジュールアプリに任せきっているヒトも少なからずいるのではないでしょうか。
我々は、程度の差こそあれ、不完全な記憶を持つ者同士が情報を交換して補いながら社会生活を成立させています。記憶が人間関係を形成しているといっても過言ではありません。
記憶を持つ者同士の交流が減るにつれ、情報格差は大きくなる恐れがあります。
これを後押しするのが、神経細胞の刺激や服薬などのエンハンスメントという操作です。
完全な記憶機能を持ち、記憶を迅速に抽出するよう能力を補強されたヒトが現れる一方で、時間・空間情報を消去してしまうヒトも現れます。記憶が消去されると、その時間その場所にいなかったことになってしまうかもしれません。
存在のデバイス化時代には、それぞれの個体に従属する時間や空間の情報と、個体が認識する時間や空間の情報の違いが、誰の目から見ても、明らかになるでしょう。
いまもとめられる、時空倫理学(Space-Time Ethics)
本稿は、過去記事と異なり、一言一句が練り上げられているものではありません。しかし、それでも今回このテーマで書いたのは、生煮えの状態でも、できるだけ早く発信しておく必要があると考えたからです。
なにしろ、重要性が唱えられ始めて長い生命倫理や脳神経倫理でさえ、「一生活者からは」ずいぶんゆっくりと進展しているようにしか見えません。専門家の間で研究と議論が重ねられていたとしても、一般市民、とりわけ「当時者となりうる可能性の高い」出産可能年齢の女性や高齢者を介護している女性には伝わってきません。そのような我が国の状況のなかで、"SFのような" 時空倫理について、すみやかに議論が始まるとは考えられません。それならば、できるだけ早く、それが呼び水の一滴でしかなくても、問いを発しておこうと考えたのです。
たとえば生命倫理については、1980年頃には、現在の生殖医療で起こりうる問題の多くは、容易に予測できました。しかしながら、30年以上経った今でさえ、代理出産問題ですら、社会的な合意ができているとは言い難いものがあります。
脳神経倫理についてはなおさらです。脳神経倫理の問題の重大性がじゅうぶんに啓蒙され、多数の一般市民がアウトラインを把握しているという社会的背景があれば、脳科学者と哲学者と心理学者と教育学者と精神医学者が、遺伝と環境の問題、更生とは教育なのかエンハンスメントなのかあるいは両方なのかという問題を(※注2)徹底的に議論したうえで、何らかの結論にいたっているはずです。そして、その結論に社会的合意が得られていれば、さまざまな事件が発生する都度、ネット住民が自ら世を正さなければならないという思いにかられることはないはずです。
生命倫理や脳神経倫理は、時間や空間の情報と相互に影響を及ぼし合います。いまや生命のパーツを作り出せる時代です。自ら思考するパーツも作られるでしょう。完全に同じ分子構造を持つパーツが一度失われて、再生されたとき、それに従属する時間の情報が異なっても、同じ一意性を維持していると見なすのかどうかという問題などは、生命・脳神経・時空の3つに関わります。
ガザニガの著作から引用すれば、脳神経倫理学とは「病気、正常、死、生活習慣、生活哲学といった、人々の健康や幸福にかかわる問題を、土台となる脳メカニズムについての知識に基づいて考察する分野」(※注3)ですが、我々が生きて死すこの時間と空間の倫理が揺るげば、その上に立つ脳神経倫理も揺らぎはしないでしょうか。ならばその土台となる時間と空間の倫理も、併行して固めなければなりません。
そのうえ、時空の問題に風穴をあけることになるであろうCERNの、さまざまな大発見のニュースが、科学者ではない一般市民の日常の中にも飛び込んできます。それは、我々の想像力をかきたてます。
機器としてのタイムマシン―――デロリアンに乗ってヒトが時空を移動する―――の話をしているわけではありません。ただ、特定のヒトに対して、時間を操作したかのようにように認識させる技術(しかも比較的誰でも使えるような)は、未来のある時点で実用化されると考えます。
科学も技術も進歩します。30年先まで、一気に、加速をつけて。
「いまここ」にはない時間と空間の情報が操作されるとき、どのような倫理的問題が生じるかを洗い出し、時間と空間の操作の制約を定め、それでもなお残る問題をいかに解決するのが妥当かを問う、「Space - Time Ethics (時空倫理学)」(※筆者の造語)が必要です。
科学的発見から派生した技術は、科学者の純粋な探究心の範囲を超えて、社会の中で用いられてきた歴史があります。実際、Fukushimaは現在進行形ではありませんか。地球上の市民がインターネットで結びつくことのできるこの時代、科学技術が我々を真に豊かにしてくれる方向へと向かうよう、時空倫理の問題を考えていかなければなりません。
学者任せにせず、一般市民も自分の頭で考えよう
時空倫理は、我々全員の日常生活に関わる問題です。時間と空間の情報が操作されると、利益を得るヒトがいる半面、損害を被るヒトもいます。
誰しも、受け入れがたい不条理に対して、自分なりの考えを持ち、主張することができます。一般市民が、電力や防災について考えるのと同じ切実さで、この問題について考えてみることが望ましいのではないでしょうか。決して専門家に任せておけばよいというものではありません。
いや、そんな哲学だの倫理だの面倒くさそうな..と、厄介な問題が降って湧いたように感じられるでしょうか。
なに、大仰に構える必要はありません。哲学とは、ギリシャやドイツの学者の原著を読破して膨大な知識を蓄積することではないはずです。アカデミックな知識はないよりはあった方がよいでしょうが、過去の他者の著作を解読する「哲学研究」や、学校で言葉による考え方を学ぶ「哲学学習」の経験がなくとも、ヒトは誰でも考えることができます。じゅうぶんな語彙を知らない乳幼児でも、絵や概念で考えることができるのですから。
自分で生き、感じ、考え、気付きを得れば、それはそのヒトの哲学ではないでしょうか。
我々一市民は、自分の問題として、自分の頭で考えなければなりません。
そしてもちろん、この連載のテーマである「データ・デザイン」に業務で関わるエンジニアは、これまでの記事で述べてきた「一意性」の問題と絡めて、この時空倫理における問題を捉えていく必要があるでしょう。
※1 "Internet of Things" (モノのインターネット) をビルドする(http://msdn.microsoft.com/ja-jp/magazine/hh852591.aspx)からリンクされているPDF資料によれば、2020年には50億の人々が500億の"モノ"に接続するようになる(P.18)。また、総務省の発表によると(http://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/01kiban03_02000096.html)平成23年12月末時点での携帯電話及びPHSの人口普及率は101.4%で、一人1台以上の端末を保有していることになる。
※2 「暴走する脳科学 哲学・倫理学からの批判的検討」河野哲也著、光文社新書
※3 「脳のなかの倫理 脳倫理学序説」マイケル・S・ガザニガ著、横山あゆみ訳 紀伊国屋書店
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