高齢者の「帰りたい」――ー望郷・ノスタルジアは、なぜ生じるのか? ~続・ライル島の彼方(n)~
「帰りたい」の意味は、空間の移動から、時間の往来へと変わる
(前回からの続き)要介護高齢者の発する「帰りたい」。対応に苦慮している介護者が、全国に多数いる。
それは、特定の場所(空間)への帰宅願望から始まる。市町村名や地域名を「明確に指定して」、移動を試みる。場所を告げない場合でも、帰りたい場所のイメージはある。
それが、任意の時期(時間)へと変わっていく。経験を追体験したいと願い、過去へと移動しようとする。だが、それは不可能だ。そこで、目を閉じて、脳内のイメージに浸り、意識だけでも帰ろうとする。当時一緒にいた人が、本人にはリアルに見えているから、話しかける。周りの目にはモノローグに映る。困ったことに、目を閉じる時間が長くなれば覚醒度は下がり、それがさらに「帰りたい」願望を強めるという悪循環に陥る。
筆者は、卒寿を超えた要介護4の親が「帰りたい」と言うたび、「どこへ帰ろうとしているのか?」「なぜ帰りたいのか?」「誰に会いたいのか?」と、問いかけてきた。この5年間、何度同じ問いを繰り返したことだろう。そうして気付いた。
当初、親の帰りたい先は、現住所の前に住んでいた地域だった。よく通っていた病院や店の名前を明確に「意識して」口にしていた。詳しい情報をもとめると、思い出を語り始めるのだった。
その後それは、子どものころへ帰りたいという願いへと変化した。両親(筆者から見れば祖父母)を追い求める言動が見られ始めた。声掛けを続けると、特定の場所(空間)に帰りたいのではなく、過去のある時期(時間)に帰りたがっていることがわかった。
筆者は、帰宅願望の背景に、時間の障害があるとみている。それは、日時の認識の問題ではなく、セッションとタイムスタンプの問題だ。
いまいる場所を、何度伝えても失念するのは、一時期億メモリよりも、セッションの問題ではないか。記憶する処理の途中でタイムアップになってしまい、情報が定着しないように見える。
そして、エピソード記憶が失われる(ように見える)のは、人生史のデータを検索するキーとなるタイムスタンプの問題ではないか。
データはあるにもかかわらず、走査する処理、検索して抽出する処理が、正常に実行されていない。
昔のことなら憶えているというのも、過去のデータほど失われにくいというのではなく、過去のデータほど取り出しやすい位置に格納されているからではないか。木構造データをルートノードから走査する処理に似ている。
正常に処理を終えるには、エネルギー不足なのか。あるいは信号が伝わらずバグるのか。いずれにせよ、記憶が失われているわけではなく、タスクの終了が必要になっているか、処理プログラムがバグって中断している状態に見える。
物忘れと言われる現象は、処理の限界を超えれば生じるだろう。長年蓄積したビッグデータを、酷使してファンが唸る古いパソコンで処理するようなものなのだから。正しい答えを期待するのは無理というものだ。
人生の軌跡を超える、意識せず発せらる、言葉。
以上のような、ある場所(空間)へ帰りたい、ある時期(時間)へ帰りたい、その希求には、本人の意思がある。
ところが、その後、四六時中うつらうつらして、現実と夢の境界が曖昧となる状態になると、意図の介在しない「帰りたい」が発せられるようになる。これが本稿のテーマだ。
今では親の「帰りたい」先は、とうの昔に亡くなったひとたちと再会する時を待ちわびる、いわば未来の時間になることがある。また、親が生まれるよりも前の、両親や祖父母の生きていた時間になることもある。
その現象は、なぜ起こるのか。「帰りたい」の一語には、どんな背景があるのか。
問いかけ続けて、気付き、驚くこととなった。その言葉は、「意識せず」発せられていたのだ。
「帰りたい」と言おうとして発しているのではない。それ以前に、言葉を発した本人は「帰りたい」と、おもってさえいない。意図が介在していないのだ。体の中から、何かが、本人の意識とは無関係に、発声させているとしかおもえない。いったい何が、ヒトの言葉を操るというのだろう?
これは気味の悪い話ではない。ヒトが意識しないまでも、身体を構成しているものは無数にある。たとえば、腸内には無数の細菌がいるが、われわれは彼らを意識することができない。
此岸と彼岸の間を彷徨うようになると、細菌たちは、生を維持しようと、懸命に働き始める。その存在を訴え始める。
彼岸へ向かうな。生きろ、と叫ぶ。一斉に叫ぶ。
彼らにとって、個体の終焉は自分たちの終焉だ。人生の成果をネット上に遺したところで、リアル世界では彼らが築きあげた、人体の中のネットワークは失われてしまう。高齢者は幼少期に、土壌にいた細菌たちを取り込んでいる。しかし、火葬が一般化した現代では、細菌たちにとってヒトの死とは、土という「帰る場所を失う」ことでもある。
細菌といえば腸脳相関をイメージするかもしれないが、それはメインシステムであろう。他の細菌たちが構成するサブシステムもあるはずだ。たとえば皮膚の常在菌。細菌たちは人体の中でネットワークを構築し、腸内細菌が壊滅状態になったときに起動するシステムを備えているだろう。
高齢者は、余命を宣告されても、何度でも回復する。セーフモードで、ふたたび立ち上がる。
まるで細菌たちがセーフモードを起動しているかのようである。
高齢者の望郷は、現代の社会システムへの細菌叢の反乱か。
ヒトの意図の介在しない「帰りたい」。筆者の耳には、それは、細菌たちが、ヒトの声帯を使って発する願いであるかのように聞こえるのである。ヒトとともに終わる自らの運命を見越して、細菌たち自身が、帰りたがっているように聞こえるのだ。自分たちのルーツを、由来の情報の中に辿って。
かつての乳幼児は、生まれた土地に由来する細菌を取り込みながら育った。衣食住とはよく言ったもので、その土地で育った植物で糸が作られ、染め上げられ、織られ、縫われた。そして、地産地消。土に根をおろした野菜を食べ、世代を超えて郷土食が伝えられた。住居も、その土地で育った樹木と蔓、土や石を使って建てられた。木造家屋では、内と外の境界すらあいまいだ。風が吹けば、細菌を含む土ぼこりが舞い込んだ。
昭和30年代頃まで、日本人は、そうして暮らしていた。空気、水、食から、細菌を取り込んできた。それが連綿と続いてきたのだ。
昭和中期までは、まだ、その名残があった。舗装されていない道では、歩くだけで土ぼこりが舞う。農家ではなくとも、家の周りは黒土で、野菜や花木を作り、土に触れる。子どもたちは、どろんこになって駆け、土に触れ、土を吸い込み、その土に生きるものを食べて、育った。皮膚から、呼吸から、細菌たちを取り入れていた。
われわれの身体は閉じられているように見えるだけで、オープンだ。環境に向かって、開かれている。人体を構成する細菌たちは、彼らが誕生した環境、彼らの「出身地」にいる細菌たちとは、離れている。だが、切り離されてはいない。だからこそ、望郷の念を募らせるのではないか。
荒唐無稽な話だろうか。
ロジャー・ペンローズ博士が、著書「心の影(林一訳、みすず書房、年)」で、量子的な非局所性について述べていることに、ヒントがありそうだ。このミステリーを解くには、時間についての物理的観念を疑い、「世界に対する見方を根本的に変える必要があるという。その新しい理論の突破口として、生物的システムにも量子コヒーレンスが起こり得るのではないか、その発生場所が、ニューロン以外にあるのではないかと提唱している。その根拠は、ニューロンやシナプスを持たないゾウリムシに危険察知や学習能力が認められるということにある。
そして量子コヒーレンスの発生場所は、ハメロフ博士との協同研究により、細胞骨格中の微小管ではないかと示唆している。古典的に相互連結したコンピュータ様のニューロン・システムは、細胞骨格で生まれる自由意識に左右されるというのだ。「ニューロン・レベルの記述は、より深い細胞骨格レベルの活動の影にすぎない」。
同書を読んだ時、筆者は、細胞に着目している理由を理解できなかった。だが、ワンオペ介護もそろそろ5年、24時間親に付きっ切りで、その言動から学んだ今では、「感覚で」理解し始めている。
同書は、もう20数年前に書かれたものであり、今では新しい知見で上書きされているだろう。
されど、コーリング・セル。離れた場所にある細胞たちの間には、何の関係性もない、ということはない、ということを切々と感じるのである。
ライフスタイルの変化が、「ノスタルジア」を消し去る。
ひょっとしたら、婚姻や、家族制度も、細胞の視点から眺めれば、意味が変わるかもしれない。結婚とは、世帯単位で生計を維持して、その集合で社会を構成するシステムだろうか?それは表向きの意味であって、実のところは、土地固有の細菌叢を伝えていくシステムなのではないだろうか。
エビデンスなんぞないが、エビデンスなんぞ待っていては日が暮れる。それより、直感で瞬時に理解する人が多数なら、その方が早い。われわれの先祖たちは、エビデンスもなくデータにも頼らず、研ぎ澄まされた感覚で、気付いていたのではないか。家事専従者の仕事には、細菌叢の維持管理という一大業務が含まれていることに。
だが、戦後生まれの人々は、細菌たちを軽んじた。昭和40年代、新興住宅の建設ラッシュに護岸工事も始まり、土は失われた。ライフスタイルが激変した。
山を削る乱開発を防ぎ、土地を守り、細菌たちのネットワークの維持に腐心する、その役割を担うはずの人たちが、山を削って産出した資材で建てられた箱の中で暮らし、ペイドワークに追われている。
直感に基づき心の声に従うのではなく、知識をもとに「頭で考えて」行動する人が増えていく。日本人は、頭でっかちになった。五感を研ぎ澄ませて得られた情報を、エビデンスを示せ論文はどこだ?と鼻先で笑う。机上の知識による裏付けがなければ、現象自体がなきものにされる。
細菌たちとの蜜月時代は終わったのだ。
「望郷~ノスタルジア」の感情は、現在の高齢者にとっては、避けがたく、耐えがたいものだ。いや、避けがたいものだった、になるだろう。土は失われ、固有種は失われた。給食やファーストフードで同じものを食べ、細菌叢は、徐々に画一化していくにちがいない。
望郷の念は、より深い場所から、かすかにしか、発せられないものとなりとなり、気付かない人が増える。
ついには、それがどのような感覚なのか、想像できない人ばかりになっていく。
このままでは、いずれ「ノスタルジア」は死語になる。
老いて故郷を想う。それは抒情性にとどまる話ではない。
ノスタルジアという感情の中に、筆者は、机上の知識を偏重して築かれる社会システムへの、細菌たちの反乱を垣間見る。
介護者は、要介護者の身体の中の声に耳を傾け、目の前のリアルを観察してみたほうがよい。
帰りたい―――その一言には、受け流すことのできない重さがある。
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