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UXデザインは、どこへ向かうのか? ~メルマガ連載記事の転載(2010年12月20日配信分)~

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この記事は、メルマガ「デジタル・クリエイターズ」に月1回連載中の「データ・デザインの地平」からの転載です。今月で10回目になりますので、まとめて載せます。

連載「データ・デザインの地平」
第1回 「UXデザインは、どこへ向かうのか?」
(2010年12月20日配信分)

※この第1回目は、一部リライトしています。

UXが開く、ブレーン・マシン・インターフェースの扉

ここのところ、UXを実現するテクノロジは、いちじるしい進化を遂げています。

ビデオ・オーディオのサポートは進み、外部から入力されるデータへの対応も進んでいます。各種センサーからの情報をアプリケーション側で取得して処理する技術も、比較的容易に利用できるようになっています。たとえば、Microsoft系の技術でいえば、位置、照度、人感、脳波などの各種センサーに対応するAPIが公開されています。
また、Kinectのように、画面にタッチせずとも、ヒトの動作によって、画面上のオブジェクトを操作することができる技術も身近なものになりました。

これらが示すのは、入力デバイスの変化です。
キーボードとマウスから、タッチと音と動作へ。そして、思考へ。

ヒトは、存在している限り、いつも何かしら考えています。何も考えない時間を意識的に作ることは、かなり難しいことです。
我々は存在しているだけで、言葉もなく、動作もなくとも、一様ではない思考は、変化する信号を出力し続けます。脳波センサは、非侵襲式ブレイン・マシン・インターフェースによるアプリケーション開発を垣間見せてくれます。

それは、「ヒトの存在のデバイス化」の第一歩といっていいでしょう。

とりわけ今後のUXを占うのはセンサー、中でも、「脳波センサー」への対応です。
なぜなら、動かなくても、声を発することがなくとも、ヒトが存在して、考えるだけだけで制御できるBMI(ブレーン・マシン・インターフェース)アプリケーションに直結するからです。

被験者がイメージした文字を、文字の形にして出力する研究の成功は、ニュースなどでご存知のことと思います。
現段階では、簡単な文字の形を出力しているだけですが、研究は加速度がついて進み、我々は近い将来、我々は近い将来、強く考えなくとも、ふと思ったことすら出力できるようになるでしょう。かなり遠い未来の話にはなりますが、言葉による理解伝達そのものがなくなり、ダイレクトな意識共有、感情共有の時代になります。
一般的な方法で端末を操作することの困難な人々にとっては特に、この技術進化は待ち望まれるものです。

では、ブレーン・マシン・インターフェースが進化した先には、どのようなUXデザインが待っているのでしょうか。

開発者が直面する、新しいテーマ

入力デバイスの進化は、開発者に、多くの新しいテーマをもたらします。

まず、ユニバーサル・デザインへの適用です。心身にハンディキャップを持ち、一般的な方法で端末を操作することの困難な人々にとって、意志を伝えるための日常的な手段となります。もっとも、ブレーン・マシン・インターフェース自体は、そのような困難の克服を出発点としたものなのですが。

また、ユーザーの心身の状態、疲労の度合いや喜怒哀楽の感情とその強さなどを判別して処理するアプリケーションが考えられます。
たとえば、ユーザーの感情によってアプリケーションの画面の彩度や明度が変わったり、あるいは操作性すら変わる―――画面遷移やコントロールのレイアウトが変わる、といったものです。それが物品販売のアプリケーションであれば、ユーザーが落ち着いているときは寄り道を多くする手順で、いらいらしているときには、手順を省くような処理を実装すれば、より購入行動に結びつけやすくなります。

物品販売用のアプリケーションならば、ユーザーの思考のパターンから、好みの商品データを抽出表示して紹介する処理が考えられます。バーチャルアイドルが好みの声で、浪費パターンの認められるユーザーにはクレジットカードの使いすぎを警告してくれたり、迷いすぎるユーザーには商品選びに付き合ってくれるかもしれません。

脳機能の傾向を判断し、互いがWin-Winの関係になれるような相手を紹介する、就職や結婚のマッチングサイトも、乱立するでしょう。これにより、離婚率は確実に低下します。

さらには、人間と寸分変わらぬ3Dのバーチャルなスタッフが、被虐待児の育てなおしや、災害や事故からのPTSDの回復推進に、一役買うようになります。

そのような時代には、開発者はプログラミング技術にとどまらず、心理学や脳科学や倫理学まで、立ち入らねばならなくなります。

開発者は、「計算機」以上に、「人間」というものを、熟知しなければならなくなります。

我々は、その範囲の広さには個人差があれ、どうしても自分基準で物事を見てしまい、ヒトの多様性を小さく見積もりすぎるきらいがあります。しかし、ヒトは、想像するよりも、はるかに多様です。知識の習得以上に、人としての体験を重ねることに呻吟しなければならなくなるでしょう。

開発者をのみ込む、倫理の議論の渦

ヒトそのものをデバイスとする技術、それはアプリケーションの形態を変え、生活を便利にし、業務を効率化し、娯楽を豊富にしてくれます。もちろん、どのような技術も心がけ次第でデメリットを生むものですから、決してノーリスクではありません。良いことばかりではありえません。

ただ、確実に言えるのは、存在のデバイス化の与える影響は、それがヒトの思考―――脳の活動に関わるものであるだけに、生活や業務や娯楽といった、我々が実際に生きていく「方法」に変化をもたらすだけに止まらない、ということです。

たとえば、3DCGで再現された実体なき人々に対して、どこまで生身の人間と同じ価値と権限を与えるのか

ニューロエシックスの発展や適用如何によりますが、脳機能に明らかな変化があった場合、変化する前のヒトと変化後のヒトを、どこまで同じ存在、一意のIDを駆使する権限を持つ者として扱うのか。そもそも、ヒトのアイデンティティとは何か?朽ちていくことが許されなくなりつつある社会における、一意性とは何か?

それらを議論する以前に、社会的なヒトの存在は、いかに定義されるべきか? 存在の認識とは何であるか、社会的存在と物理的存在と各個体の認識する存在に差異はあるのか?その認識方法、認識の過程に個体差はあるのか、あるとすればそれをどのような方法で検出し、どう定義付け、どう判断するのか?

我々には、そういった問題が突き付けられます。

ヒトの属性データを木構造の中に押し込めて扱うならば、「存在とは、各個体の意識の座のある座標値を中心とする拡大する場に属する情報のセット」として、拡大の範囲(リーフノードに至る構造)を定義すれば青写真を描きやすい気もしますが、それは呑気な一データ・デザイン屋の私見に過ぎないでしょう。木の形に成型されるべくヒトが生まれてくるわけではないのですから。そもそも意識の座が、全人類共通で単一のものであるかどうかは分かっておらず、いや、限らない世界になっていく可能性だってあるでしょうから。

こういったテーマに対する考えは、それぞれの立場によって異なるでしょうし、個々人の意見が、社会を維持していくうえでの正解と、必ずしも一致するとは限りません。さまざまな分野、さまざまな業種で、ニューロエシックスの議論が沸き起こり、決定を受けて実装を行う開発者もまた、その議論から逃れることはできません。

しかし、その混乱の果てに、我々は、技術進化がなかったならば獲得できなかった、新しい概念、新しい気付きに、たどりつくでしょう。
存在のデバイス化は、開発者に何をもとめ、何をもたらし、あるいは開発者から何を奪うのか。
今この時点から考え始めても、遅いぐらいです。問題が噴出し始めてからでは間に合いません

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