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死にゆく者の意思は守られるか ~メルマガ連載記事の転載 (2011年7月11日配信分) ~

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この記事は、メルマガ「デジタル・クリエイターズ」に月1回連載中の「データ・デザインの地平」からの転載です。今月で10回目になりますので、まとめて載せています。

連載「データ・デザインの地平」
第8回 「
死にゆく者の意思は守られるか」 (2011年7月11日配信分)

家族の感情に規定される、リビング・ウィル

我々は平生、病気や災害や事故のリスクを薄々感じつつも、死というものに向き合うことを避けがちです。延命措置や臓器提供への対応について、意思を完全に代弁できる家族がいたり、逆に、自分が代弁できる関係にある人は、そう多くはないでしょう。

平生から家族間の関係がWin、Winであれば、万が一の場合にも何ら問題は生じないのですが、そうではないケースも少なくありません。家庭は小さな国家です。勝者と敗者が家族の形をとっていることもあります。

ここでは人の死の定義には踏み込まず、臓器提供にしぼって考えてみましょう。見送る者と、見送られる者。それぞれが次のような関係、あるいはその逆であったならば、見送る側は臓器提供に対して"YES"と言うでしょうか、それとも"NO"と言うでしょうか?

A. 学童 : 長期不妊治療後出産育児の親
B. 重度障碍児 : 子の将来を案ずるシングルマザー
C. 看取りを希望する夫 : 献身妻
D. ひきこもり青年 : 年金生活親
E. 進学をあきらめて働く子 : 求職中の病親
F. 反抗期の学生 : 教育に異常に熱心な親
G. DV加害者 : 被害者
H. 認知症夫 : 高齢妻
I. 軽度発達障碍夫 : 軽度発達障碍妻

ケース・バイ・ケースではありますが、A.~G.のケースで、家族の感情が意思決定に一切影響しないと、言い切れるでしょうか。また、H.やI.の当事者は、未経験の状況下でパニックに陥ることなく冷静に判断できるでしょうか。発達障害は比較的近年になって知られてきたものであり、未診断の社会人の中には、熟考する前に他者からの提案を受け入れる傾向の人もいます。

家族だけでは決定できず、駆け付けた親族に助言をもとめたところで、多様な意見が噴出して混乱を招くだけです。

仮に、二度の結婚をした若い女性が死にゆくケースを考えてみましょう。元夫と、再婚後の現夫の考えは異なるかもしれません。子供でも同様です。精神的虐待親と、ステップファミリーとなった新しい親の考えは異なるかもしれません。「本人意思が不明であるならば」、同じ人の生命が、家族との関係如何で、異なる結末を迎えることになるかもしれません。

現行の本人意思確認方法は、家族と一緒に考え話し合えるような、理想的な家族のモデルを前提条件とするものです。しかし、そのような家族ばかりではありません。

関係が比較的良好であっても、病人や高齢者に対しては、「もし、万が一の状態になったら」という仮定の話をすること自体が、はばかられます。生きる意欲を失わせたり、病気の程度をより重く誤解させることにつながりかねないからです。また、「広報の内容が難しい(論理的思考が苦手で条件文が理解しにくい)」「今元気なのに考え過ぎ(短期報酬系で先のことを想像しにくい)」という理由で話し合いにならないケースもあります。

「見送られる側の権利は、見送る側の手中にある」というのは、言い過ぎでしょうか。

デフォルト値の変更が要請する、意思登録システム

では、本人意思が「YES」であれ「NO」であれ、それを、医療従事者に直接伝える方法はないのでしょうか。

健康保険被保険者証や運転免許証の臓器提供欄に自分の意思を記入しておくことはできます。しかしながら、家族署名が必須でないとしても、署名欄がある以上、家族に一言知らせておく必要はあるでしょう。先に述べたように、家族と話し合いの場を持てない人にとっては厄介な方法です。

保険証や免許証に記入せず、臓器提供意思表示カードに記入する方法もあります。が、これ1枚では有効性が劣ります。臓器提供意思表示カードは、保険証や免許証と異なり、携行の事実を確認する手段がないからです。家族がカードを提示しなかったとしても、もともと持っていなかったのか、持っているが見つからないのか、廃棄されたのかは、医師には分かりません。室内で倒れてそのまま病院に運ばれ、家族が「YES」と言った後で、自室の遺品の中から「NO」のカードが見つかる可能性もゼロであるとはいえません。

筆者はどうかといえば、ローソンでカードが配布開始されたときに即入手し、保険証にも記入欄が出来た時から記入し、財布に入れて携行していました。が、臓器移植法改正は、筆者にとっては、逆の方向に働きました。

臓器提供についてのデフォルト値が変更されたことにより、意思確認の問題が重篤化したのです。
以前は、臓器提供のデフォルト値は「NO」でした。そのため、本人意思を確認できない場合は、「NO」であると判断されました。
ところが現在は「YES」がデフォルト値です。本人意思を確認できない場合は、家族が「YES」と言えば「YES」であると判断されます。
デフォルト値が異なると、本人意思を確認できない場合の対応が、逆になります。

そこで、「デフォルト値」がどうであれ、携行を必須としない、本人の意思を医療機関に正確に伝える手段が必要になります。その手段として、(社)日本臓器移植ネットワークによる、臓器提供意思登録システムがあります。しかしながら、このシステムは、家族を基本とする制度の上に成り立っていますから、照会の条件には「家族」の二文字があります

本人意思を最大限尊重するには、「個人が」自分の意思を登録でき、随時修正でき、緊急時には、医療機関の判断ひとつで照会でき、且つ、「推進と反対のどちらの立場でもない、独立した中立的な第三者機関」が運用するシステムがもとめられます

「YES」であるか「NO」であるか、どちらが正しく、どちらが間違っているのか、何がヒトのあるべき姿なのかという問題を論じる前に、個人の意思を保護するしくみが確立されていなければなりません。個人がいかなる強制も受けず、自分の考えを表明することができ、「YES」ならばその意思が、「NO」ならばその意思が、尊重されなければなりません。現代の日本では、システムはもはや社会基盤です。一介のデータ・デザイン屋は、制度が、その実施に必要なシステムを欠いたまま運用されていることに、危惧をいだいています。

意思登録システムの課題は「認証」と「標準化」

前述のような、個人の意思登録システムを構築するとなると、2つの課題が生じます。
データのCRUD処理(登録や変更や削除)の技術は、家族が主であろうと個人が主であろうと、大して変わりません。
が、家族とは無関係に個人の意思が尊重されるシステムを構築するとなると、別の技術が必要です。
それは、システムを利用する本人の確認と、全国の医療機関からの円滑な照会を可能にするデータ設計です。

前述の臓器提供意思登録サイトでの本人確認方法は、パスワードと「質問と答え」のセットです。これは理想的な家族を前提とするなら妥当なものです。しかしながら、個人を前提とするなら、家族の推測により代行されてはなりません
過去の記事で述べたように、これからは存在がデバイス化していきますから、それに応じた堅牢な認証システムが必要になります。ところが、指紋、指静脈、虹彩認証では(事故で死に瀕した場合など)認証部位が損傷していることも考えられ、病院の物理的なセキュリティを考えれば(見舞いを装った侵入が容易)、動くことのできない入院患者から情報を取得して偽造するリスクも考えられます。この課題を短期間で解決することは困難でしょう。

もうひとつの課題は、データの標準化です。該当する医療機関から、確実に当事者の個人情報と登録済み意思データを照会できなければなりません。この円滑な照会を実現するには、共通のデータ・デザインが必要になります。(医療分野のXMLに関わったことのある筆者から見れば)この標準化作業に膨大な時間がかかることは、想像に難くありません。

最終の意思確認を行う、脳活動センシング技術への期待

さらに、システム化には、もうひとつ厄介な問題があります。それは「意思の変更」です。
いまわの際に到って初めて、死への恐怖よりもむしろ苦しさから意思を覆すことは十分に考えられます。したがって、システム登録時から意思の変更がないか、モニタリングする方法がもとめられます。

現段階では、終焉の意識を明らかにして、そこから意思を取得することなどできません。死にゆくヒトに対して「現在のあなた自身の意思を反応として返してください」と呼びかけ続け、万が一脳内で何らかの反応があったところで、それを取得することができません。しかし、それが不可能なのは、(1)本人に意識がないからなのか、(2)意識はあっても発信できないからなのか、(3)測定不可能な手段で情報が発信されており、現行の機器や第三者の感知能力が鈍いために気付かないからなのか、は分かりません。

延命問題に向き合ったことのある人や臨死体験者なら――ごく個人的な体験が、他者のケースに当てはまるとは限らないとしても――、(3)の可能性を捨てることができないのではないでしょうか。

そこで期待されるのが、脳活動センシング技術の進化です。期限を設けて最終の意思を取得し、それがシステム登録時と異なっている場合は、「意思の変更」と捉えて最新の情報を優先するならば、(期限付きではあっても)少なくとも、家族ではなく本人の最終的な意思を尊重したことにはなります。もっとも、そんなものは混乱の中での「揺らぎ」にすぎないとする向きもあるでしょう。それは無意識の神経活動にすぎず、アウェアネスではないという意見もあるでしょう。

医療や制度が変わっても、この国には、ヒトが時空の座標を持つこと(そこに、いること)を、脳の特定部位の状態(いかに、いるか)よりも、優先する人々がいます。それらの人々にとっては、生死の線引き議論の土台は、脳メカニズムにはありません。それよりさらに下の、脳メカニズムを成立させている「時空」にあります。しかしながら、その肝心な時空のしくみについては、最先端の物理学者ですら答えを見い出そうと挑み続けている最中です。我々は、この世界の成立について何ら分かっていない自らの無知に目を背け、何もかも分かったような顔をして、存在に対するとてつもなく大きな権利を行使しているのです。

脳活動センシング技術の進化と、その技術を用いたシステムは、いずれ我々の無知をあぶり出すことでしょう。そして、死を受容するための静謐な時間と、経済活動を行う時間を同じ単位で計ることの正当性について、再考する機会を作るでしょう。その後、議論が尽くされ、中立的システムが稼働して初めて、死にゆく者の意思は守られるようになるのかもしれません。

≪ 第1回 UXデザインは、どこへ向かうのか? (2010/12/20)
≪ 第2回 そのデータは誰のもの? (2011/01/24)
≪ 第3回 子ノード化する脳 (2011/02/20)
≪ 第4回 多重CRUDの脅威(2011/03/14)
≪ 第5回 震災は予知できなかったのか(2011/04/18)
≪ 第6回 永代使用ポータル、クラウドがつなぐ生者と死者の世界(2011/05/16)
≪ 第7回  「脳活動センシングの進化が、作曲を変える」(2011/06/13)

≫ 第9回 Windows Phone 7.5 に見る"ヒトとコミュニケーションの形"(2011/08/29)

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