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3月6日、浜松で「中日レディーズサロン」(中日新聞東海本社主催)第140回講演に招かれ「『漱石の孫』にいたるまで」という題で話しました。2百人ほど女性ばかりの集まりで、主催者の話だと盛況な回だったようです。僕の中学時代の手帳メモから始めて、身内と文学者漱石の矛盾の話、プレッシャーと屈折の話をへて、千円札の頃までに「漱石の孫」を受け入れ、、『漱石の孫』を書くにいたる経緯を語るという・・・・。約1時間15分に若干の質疑。その様子が、翌7日の中日新聞社会面に写真入りで載ってます(早!)。ネットにも記事が載るといってたから、検索すると当るかも。
※ありました→ http://www.chunichi.co.jp/shizuoka/ladies/h_ladies140.html
平凡寺と我樂他宗
僕の知る限りでも、平凡寺についての雑誌の記事というのがいくつかあります。ほとんどが奇人変人扱いで、やや軽薄な表層的な記事が多い。なかで、『趣味と実益』という雑誌の大正13年創刊号の連載「趣味百態・奇人変人」第一回目に華々しく平凡寺が登場します。記事は非常に詳しく、好意的です。署名は一記者(清水忠三郎、記録者注)とある。対話形式ですが、我楽他宗の誰かに取材したのかなと思われる記事です。ちょっと引用してみます([ ]内引用者)。
〈彼は[つまり平凡寺ですね]自ら知空和尚と称し[この辺、禅宗の影響でしょうね]書斎を本堂又は廃物堂と呼んで居る、従つて来訪者を登山者と唱へて居る訳さ[略]信者の善男善女無慮三百人もあるし、末寺が既に三十三も出来、講中も殖へるばかりで、信者に中には独り日本人ばかりでなく印度人やペルシャ人まであるさうだ。〉
実際我楽他宗には外国人もおり、インド人などの写真も残っています。何かしら彼らをも仲間に引き入れる魅力が平凡寺にあったんでしょうね。宮武外骨という人とも親交があったのは有名な話です。宮武外骨自身は我楽他宗じゃないようですが。わりと後の話だったかもしれませんが、よく出入りしてたそうです。母や伯母も覚えてました。あるとき僕の所に誰かの使いでよく平凡寺さんの所に来ましたという人から手紙が来ました。平凡寺の「いるす」の離れにいたら、すごい怖い目つきの人が後ろをスーッと入って来た。平凡寺がギロッと睨んで、向こうもにらむ。お互いにギロッ、ギロッと睨み合ってニコリともせずに、去っていった。その人が物をいくつか持って出ていったと。どうもそれが宮武外骨だったと言うんですね。なんかそういう仲だったらしい。宮武外骨の書物もいくつか残っておりました。平凡寺も骸骨を集めておりまして、なかに本物があったようです。刑場で死刑になった人の骸骨だったようで、その骸骨は宮武外骨を通じて東大の資料室に寄付されたと聞きました。あの時代、二人とも相当変ですから、変同士で交流があったんでしょう。
写真7 我楽他宗年忘「同化名弄會」 小澤一蛙(左下)、齋藤昌三(左上)、岡本染八(左女性)、アントニー・レイモンド(中央奥)など
我楽他宗の様子を写した写真でお見せします。大正10年12月の「同化名弄會(どうかなろうかい)」。こういうような集会をやっていたようですね。非常に楽しそうに盛り上がってます。忘年会ですね。なんか仮装したりしては寄り集まっては騒いでいる、そういう感じです。なかには大工さんもいればお殿様もいた。つまり階層とか人種とか超えた交流があったらしいですね。大正~昭和前期、趣味を通じて階級や人種を超えて対等に付き合える、そういう面白さがあったんだろうと思うんです。しかし、それは特定の何かイデオロギーとか宗教的信念があったわけではなく、なんとなくそうなったらしいですね。それが面白い所です。趣味というものが、あくまでも社会の諸利害から自立したものであるという、何らかの階層的な思想であるとかとは結びつかないものであるという所もあったのではないでしょうか。その辺はひとつの特徴であったと聞いております。
写真8 前列左から高橋狗佛、小澤一蛙、河村目呂二、中段、三田村寒菊、廣瀬木兎、有坂與太郎、上段、河村すの子、有坂改子
写真9 北越山文殊寺 福井のお殿様・侯爵松平さん
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