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一体、どこまで自分の仕事を紹介したのか、すっかり忘れているので、テキトーに最近のスクラップから挙げておきます。
「マンガの方法と想像力」4p
社団法人初等教育研究会『教育研究』07年8月号
「史学科の経験」1p弱
青学文学部史学科同窓会報「せいりんぐ」07年8月1日 4号
「『大書源』DVDの衝撃」
二玄社 「出版ダイジェスト」 07年9月20日
「太極拳閑話 房之介が行く!」3p 絵入り
イースト・プレス 「太極スタイル」07年11月4日
「漱石と作家たちの直筆原稿」2p
集英社 「青春と読書」 07年11月号
「死を受け入れた父の言葉」2p
(財)愛知県教育振興会 「子とともに ゆう&ゆう」07年11月
前にもお知らせしたと思いますが、「仮」だった「学習院大学・身体表象文化学専攻」のホ^ムページが正式にオープンになったそうです。
以下のURLです。
http://www.gakushuin.ac.jp/univ/g-hum/cult/index.html
ところで、現時点で発表されている僕の紹介ページは、とりあえず他の人が書いてくれています。なので、ニュアンスの違いがあります。たとえば、
〈[略]マンガ研究・評論の本も書いており、この大学院ではそうした成果を<マンガ学>という体系へ統合する作業に進みたいと思います。〉 http://www.gakushuin.ac.jp/univ/g-hum/cult/04natume.html
という紹介の一文がありますが、現時点で「<マンガ学>という体系へ統合する作業」に進む気も能力も僕にはありません。「体系」をどう理解するかにもよりますが、僕にとって現在重要なのは研究や現場各領域の様々な局面をむすびつけ、横断的、学際的なネットワークを非中心的に、しかしある種の求心力を保ちつつ形成し、今後の「学」の形態を「開いた」ものにすることです。反(脱)体系では必ずしもないですが、現時点では非体系的たらざるをえないかもしれません。
大学への就職は、僕がこれまで考えてこなかったことも強いてくるでしょうから、これからブログでも事前に考えたり思ったりしていることを、そのつど書いていこうと思っています。
来年から大学に高齢就職するプレッシャーもあって、内田樹さんのブログの記事が気になった。記事は宴会と村上春樹論の「軸」(=〈『存在しないもの』のもたらす魅惑と恐怖は文化的な地域性を超えて汎通的である〉)について書かれたあと、こう続く。
〈どうして私が「存在しないものがすべてを意味として編制する」という逆立した議論に惹きつけられるかというと、それが「実証的な研究」の意味についての再考を迫るからである。
もちろん実証的な研究は学術的に大きな意味をもつ。
けれども、実証的研究に「はまる」と、しばしば学者たちは「存在するものがすべてを意味として編制している」というチープな物語を信じるようになる。
一般に、学者というものは学術情報の蓄積がある閾値を超えたところで「ワイルドでカラフルな仮説を立てる人」と「重箱の隅をつつく人」に二極化する。
それまで自分が蓄積してきた学術情報が「次のレベル」へジャンプするための「カタパルト」とみなして、それを「踏み台にして棄ててゆく」人と、それまで自分が蓄積してきた学術情報を「お宝」とみなして、それを退蔵して飾り立てる人の二種類にわかれるのである。
残念ながら、90%の学者は後者である。
原理的に言えば、あらゆる学術情報は「棄てるため」にある。必死になって研究するのは、その研究成果が「実は無意味」なものであるということを確認するためなのである。
「無意味なことはできない」という人間は学者には向かない。
あまり知られていないことであるが、私たちにとって「意味のあること」の有意味性はどのように構築されているかではなく、私たちにとって「無意味なこと」の無意味性はなぜ知的に把持され得ないのかを問うことが根源的に学術的な知性のあり方なのである。
真の知性は「存在しないもの」、私たちの意識から絶えず逃れ去ろうとするもの、知性が把持することのできないものを選択的に追う。〉「内田樹の研究室」2007.10.24「宴会週末」より http://blog.tatsuru.com/
ここで書かれていることの、知的な文脈や理路を全部「理解」はできていない。また、その必要もあまり感じない。なぜかというと「仮説」と「重箱」の「二極化」については経験的によく了解できて、その前提になる「存在しないもの」「無意味なもの」についての「知」の欲求に関しては直観的にものすごくよく「わかる」気がするからだ。「実証」がつまることろ不可能性や無意味にたどりつくのも、同じことをいっているかどうか知らないが、経験的に思ってきたことだ。知識として理解はできないが、直観としてはおそらく同じことを僕は了解している。
ただ、僕は学術的な訓練なしに無手勝流でそこにたどりついてしまったので、批評家には近いが学者にはなれないのだ。こういうことを、多分これからしばらく考え続けることになるんだろう。
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