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夏目房之介の「で?」

意味を捨てる學問

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来年から大学に高齢就職するプレッシャーもあって、内田樹さんのブログの記事が気になった。記事は宴会と村上春樹論の「軸」(=〈『存在しないもの』のもたらす魅惑と恐怖は文化的な地域性を超えて汎通的である〉)について書かれたあと、こう続く。

〈どうして私が「存在しないものがすべてを意味として編制する」という逆立した議論に惹きつけられるかというと、それが「実証的な研究」の意味についての再考を迫るからである。
もちろん実証的な研究は学術的に大きな意味をもつ。
けれども、実証的研究に「はまる」と、しばしば学者たちは「存在するものがすべてを意味として編制している」というチープな物語を信じるようになる。
一般に、学者というものは学術情報の蓄積がある閾値を超えたところで「ワイルドでカラフルな仮説を立てる人」と「重箱の隅をつつく人」に二極化する。
それまで自分が蓄積してきた学術情報が「次のレベル」へジャンプするための「カタパルト」とみなして、それを「踏み台にして棄ててゆく」人と、それまで自分が蓄積してきた学術情報を「お宝」とみなして、それを退蔵して飾り立てる人の二種類にわかれるのである。
残念ながら、90%の学者は後者である。
原理的に言えば、あらゆる学術情報は「棄てるため」にある。必死になって研究するのは、その研究成果が「実は無意味」なものであるということを確認するためなのである。
「無意味なことはできない」という人間は学者には向かない。
あまり知られていないことであるが、私たちにとって「意味のあること」の有意味性はどのように構築されているかではなく、私たちにとって「無意味なこと」の無意味性はなぜ知的に把持され得ないのかを問うことが根源的に学術的な知性のあり方なのである。
真の知性は「存在しないもの」、私たちの意識から絶えず逃れ去ろうとするもの、知性が把持することのできないものを選択的に追う。〉「内田樹の研究室」2007.10.24「宴会週末」より http://blog.tatsuru.com/

ここで書かれていることの、知的な文脈や理路を全部「理解」はできていない。また、その必要もあまり感じない。なぜかというと「仮説」と「重箱」の「二極化」については経験的によく了解できて、その前提になる「存在しないもの」「無意味なもの」についての「知」の欲求に関しては直観的にものすごくよく「わかる」気がするからだ。「実証」がつまることろ不可能性や無意味にたどりつくのも、同じことをいっているかどうか知らないが、経験的に思ってきたことだ。知識として理解はできないが、直観としてはおそらく同じことを僕は了解している。
ただ、僕は学術的な訓練なしに無手勝流でそこにたどりついてしまったので、批評家には近いが学者にはなれないのだ。こういうことを、多分これからしばらく考え続けることになるんだろう。

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