« 2010年1月6日 | 2010年1月8日の投稿 |
2010年1月13日 » |
経営者はメールの前置きのあいさつにうんざりしているのかもしれない。
2人のリーダーが日本とアメリカでそれぞれ似たようなアイデアに行き着いた。ひとりはソフトバンクを率いる孫正義社長、ひとりは湾岸戦争の後方支援部隊を率いたウィリアム・ガス・パゴニス中将だ。彼らが目指したのはコミュニケーションの無駄を省くことだ。
孫正義氏をよく知る人物によれば、孫正義氏はメールの冒頭を3行しか読まないそうだ。そのためメールの4行目に書いた用件が伝わらなかったことがあるという。その孫正義氏が先日ソフトバンク社員2万名にマイクロブログサービスのtwitterを活用するよう勧めた。twitterでは一度のtweetに140字しか詰め込むことができない。「平素は格別のご高配を賜り」という見飽きた挨拶をやめ、必要な事柄だけを伝え合うことにぴったりのサービスであると言えるだろう。
1990年、twitterの生まれる16年前のイラクでtwitterと同様のマイクロメッセージが活躍していた。湾岸戦争で後方支援を担当したパゴニス中将は、膨大な物資や兵員の輸送を担当する中でその仕組みを完成させた。使用されたのは3インチ×5インチの紙製のカードだ。このカードに書かれたメッセージは、伝書士によって米軍のいたるところに運ばれた。1日に1000枚以上のカードがやり取りされ、自分の手元に来たカードをその問題を処理する能力のある人物に転送したり、許可や指示を書き入れて返信することが活発に行われた。名刺2枚分の面積しか持たないこの小さなカードが情報の流れをスムーズにしたおかげで、湾岸戦争では1万2千台の戦闘装軌車両、11万7千台の装輪車両、18万3千人の人員、107万トンの物資と器材がアラブの地に輸送され、運用された。
しかし日本人には短いメッセージを書くことへの心理的な抵抗があるかもしれない。大里真理子氏はブログでこのように書いている。
「報告は結論からせよ」とスタッフに言う私も、文章になると、英語は結論から、日本語は起承転結の順番が一番すんなり来ると思っている節がある。
しかしそうとばかり言っていられない事情もある。
「今やeメールを端から端まで丁寧に読むことは不可能になってきたよねぇ」とある人が言ったら、アメリカ人の知人が、「だから僕は最初の5行しか表示できないようにメーラーを設定しているよ」
日本人もそうなる日が近いかも。
結論を先に書く英語文化においても、昨今の電子メール主導のビジネスの現場や湾岸戦争時のような状況においては渋滞を生じるようだ。ましてや起承転結を尊重する日本ならば、メールの前置きの問題はより大きなものになっていくだろう。twitterがソフトバンク社のビジネスに成功をもたらせば、日本のビジネスコミュニケーション文化にも変革が生じるかもしれない。
#いつもよりコンパクトにお届けしました
#パゴニス中将の湾岸戦争での活躍については「山動く」(同文書院インターナショナル 1992/11)に詳しいです。なお3インチ×5インチカードは湾岸戦争よりずっと前の1965年、パゴニス中将が中尉だったときに編み出されたものです。上司の中佐に仕事の報告をするために長い順番を待たねばならず、しびれを切らしたパゴニス中将がカードにメッセージを書いて秘書に押し付けて帰ってきたら、後日「了解」と書き込まれたカードが届けられ、それ以後カードを活用するようになったという記述があります。twitter誕生より50年前の偉業ですね。
定期的にセクハラに関する研修を受ける機会があるのですが、それを機に思い出しました。大学のときバイト先で男の先輩からセクハラを受けました。
二人きりになったときに背後から私のズボンの両ポケットに両手を入れ、揉む。
それだけなのですが、嫌でした。それは実は揉まれることが嫌だったということではありません。(いや、嬉しかったということもありませんが)そのことを相談できないことが苦しみのほぼすべてであったと言えます。
職場の雰囲気はフランクな感じでした。何人かの男たちでプロレス技をかけあうとか、寒い日にジャンケンで負けた人の背中やお腹で冷えた指先を温めるとか、濡れタオルでしばきあうというようなことがありました。とはいえ両手で揉む(しかもわりと紳士的に)というのは明らかに初回から身構えるできごとでした。「いつもの遊びがエスカレートしたのか」という考えは自分に言い聞かせるために思い浮かべるだけで、自然にそう思えるような状況ではありませんでした。
上司に相談できるかといえば、ひょっとして上司も加勢したらどうしよう、というありえない心配に加えて、相談された上司も困るだろうという思いと、何か怒られそうな予感と、本人にバラされたら面倒だという思いから難しいように思われました。そういった無力感はセクハラ行為そのものよりも大きな悩みでした。
とはいえ全然ひきずるようなものでもなく、未だに嫌な思いがあるということもないですし、男性が好きな男性の方に嫌悪感とか拒否感を持つということはありません。ヤマジュン先生関係のネタを見れば笑います。肯定的な思いや興味を持っているということもありませんが。むしろセクハラ体験以前のほうが自分と縁遠い世界であるように思えたためか、マイノリティな方を蔑むような考えを抱いていたように思います。
この体験から考えるに、実際にセクハラの被害にあうとこのような気持ちになるのではないかと思います。
- 相談できない(被害な長引きそう)絶望感
- 周りが気づいてくれない疎外感
- 周りの人にとって自分の問題は大したことじゃないんだという劣等感
- 他の人からも狙われるかも知れないという周囲の人への疑心暗鬼
非常に言葉は悪いですが、揉まれても文字どおり「減るものじゃない」んですよね。受け止め方の性差と個人差は非常に大きいかもしれませんが、その事自体で気が滅入ることはないのではないかと思います。それよりも相談できないことや、それにより周囲の仲間であるはずの人を信じられなくなるような心理的状況こそがセクハラ問題の根を深くしているのではないでしょうか。
最近では男性から女性へのセクハラといっても触るとか、下着の色を聞くというような直球を投げることは非常に少なくなってきているという印象があります。それよりも普段の何気ない発言のなかに性的な言動が含まれるケースでは、傷つけた側もそのことを認識できないということが問題になっています。これは女性から女性への発言も対象になるようで、先輩の女性社員が新婚の後輩女性に「子どもはいつ頃の予定なの?」と聞くこともタイミングや両者の関係次第ではセクハラに該当すると言われます。これも相談しづらい悩みを抱えるという根っこは同じことかもしれません。その予防には普段から密なコミュニケーションにつとめ、相手の性格や心情を把握して思いやりのある会話を心がけるのが良いと聞きました。おっさん化が進み、話しかけようとすること自体がセクハラだと言われてしまったらどうしよう。
« 2010年1月6日 | 2010年1月8日の投稿 |
2010年1月13日 » |