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1)「漫画」と「笑い」の分離 尾崎秀樹の挫折
★旧来の漫画像 文芸春秋臨時増刊「漫画読本」82年11月
★「漫画読本」66年 〈夏の増刊 長編マンガ館〉杉浦幸雄『モウソウくん』8p加藤芳郎『クーサイマン』4p 馬場のぼる『ハナの長いイノシシの話』9p 小島功『一寸(3.03ミリ)法師』8p 手塚治虫『われ泣きぬれて島と』16p
★貸本劇画の誕生 56年『探偵ブック影』創刊(八興) 57年『スリラーブック街』創刊(セントラル出版)
白土三平『忍者武芸帳』59~62年発行 マンガを論ずる知識人、学生に影響
→石子順造〈[劇画とは]笑いの要素がない、物語性をもった、実録的な連続マンガということになろうか。読者対象が主として青年層にあるという点も「劇画」の特徴だろう〉石子『戦後マンガ史ノート』紀伊国屋新書 75年 12p
文芸評論家・尾崎秀樹の場合
「笑い」=本質規定 〈まんがをまんがたらしているのは、笑いだ。〉尾崎秀樹「笑い言語へのアタック -まんがへの距離感―」No.1 「COM」虫プロ商事 68年6月号 87~88p ↓
「笑い言語」による分析の挫折〈私はまんがの中の非まんが的な要素をひとつひとつとり除くことによって、あとに何が残るかということをためそうとした。しかし、実際にはそのような屍体解剖的な手法では何も析出されないことがわかった。〉〈ただ残念なことはまんが論がまんがの外側から論じられて、なかなか内側から論じられないことである。 [略]まんが自体の方法論を確立しなくてはならないが、やっとまんが家の作品研究が緒についた現在の段階では、それも夢のような話だ。〉尾崎秀樹「笑い言語へのアタック -笑いの表現―」最終回 「COM」虫プロ商事 69年7月号 142~143p
2)コマ=表現形式の発見
★コマとマンガ〈B型[コマを持つマンガ]の本質は、ストーリー・まんが・劇・画という話と絵にあるのではなく、コマそのものにあったのだ。〉(峠あかね(真崎守)「コマ画のオリジナルな世界」「COM」68年3月号 80~82p 下線、太字=引用者) 【既出】
★「サンデー毎日増刊 これが劇画だ」70年~「劇画とマンガ」シリーズへ
★「別冊アサヒ芸能2 特選コミック劇場」71年 〈長編クライマックス・コミック特集〉
3)複製メディアとしてのマンガ
石子順造 〈第一は、マンガを複製作品としてとらえることである。 [略]一定量が複製され、流布されることによってマンガである[略]第二は、マンガを作品表現として完結的にみるのでは足りず、いわばメディアとしてとらえる視点である。/第三は、どのようなストーリーによって展開されようと、マンガは、まず絵と言葉によって表現されるのであって、独自の表現と構造をもっているはずだ〉石子『現代マンガの思想』太平出版社 70年 23~24p
副田義也〈高度成長期以降、マス・カルチャーは華々しく肥大化したが、そこに生じた変化のひとつが、マンガ文化の抬頭であった。[略]その成熟の一面は、マンガがジャンル(分野)からメディア(媒体)へ変化したと表現することができると私はかんがえる。〉副田義也『マンガ文化』紀伊国屋書店 83年 20p
呉智英による整理〈さて、マンガの定義だが、故石子順造が考えていたものを参考にしつつ、簡潔に次のように定義したい。
コマを構成単位とする物語進行のある絵
定義ではないが、ほとんど常に見られる重要な特徴ということでは、大量生産を前提にしコピーだけがあってオリジナルがない(むろん原稿はある)[略]「複製芸術」であること、絵は程度の差こそあってもデフォルメされていること、幼児から青年層にかけてを主たる読者としていること、娯楽を目的とするものが大半であること、これらの点を指摘することができる。〉呉智英『現代マンガの全体像』情報センター出版局 86年 95~97p
3)脱定義的な「私」のマンガへ 70~80年代「マンガ世代」のマンガ言説
★マンガ(へ)の内在 先行世代の否定
〈「マンガ世代」なる流行語は、[略]第一にマンガと共に育った世代ということ。[略 例に『巨人の星』『あしたのジョー』]青年期に劇画を読むようになったという意味で、戦後マンガ史の主要読者層として、その成長に伴って出版マンガが展開してきた世代、第二に、その表現手段としてマンガを選んだ初めての世代であるということ〉「序説”方法の問題“」『迷宮’75 マニア運動体論』批評集団 迷宮’75 霜月たかなか『コミックマーケット創世記』朝日新聞社 08年 191p 〈彼等[既存のマンガ批評者 例・斎藤次郎、石子順造ら]にとってマンガは常に対象であり、外にあるものでしかなかったのだ。〉同上「第四章 方法の問題」 209p
〈おそらく、マンガとは“私性”そのものなのだ。 [略]/マンガは「私」と「私」、つまり描き手と読み手が出会う場であるばかりでなく、重なる場でもある。[略]マンガを読むこととは、マンガを描くことの追体験であることがそこから出てくる。〉(米沢嘉博「マンガの快楽 -風景・線・女体・グロテスク」米沢嘉博編『マンガ批評宣言』亜紀書房 87年 178~179p)
運動=場としてのマンガ コミケ ニューウェーブ 三流エロ劇画
亀和田武、飯田耕一郎ら小出版社のエロマンガ誌の編集者・マンガ家を中心に提起。
「別冊新評」79年4月の特集号「三流劇画の世界」亀和田、飯田の他、米沢嘉博、村上知彦、小野耕世、高取英、橋本治らが執筆。作家として、清水おさむ、ダーティ松本、能條純一、羽中ルイ、宮西計三、村祖俊一などを紹介。
相田洋〈[三流劇画は]マンガ総体の変革の予兆であり、新たなる表現としての劇画の胎動である〉(「突っ走れ、更に速く!!」同誌20p)
亀和田武〈劇画シーンにおけるこの覇権交替を促したものが、[略]劇画が本来有していた生々しい緊張感の回復=劇画の復権闘争によるものだった〉(「新たなる劇画の地平」同上31p)
★先行世代、既成への抵抗と自己の確立=マンガ、劇画 カウンター・カルチャー性
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