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以前ご紹介したジェフ・ジャービス氏の新著"Public Parts"が早くも邦訳され、『パブリック―開かれたネットの価値を最大化せよ』として出版されています。公に公開されている部分、つまり「パブリック」の新しい姿を考える本書には、ネットからIT一般まで広く参考になる指摘が盛り込まれています。年末年始の一冊として、是非ご一読を。
先日ある方が、奥様を病気で亡くされたことについて体験談を書かれ、ネット上で公開していました。大きな反響を呼んでいたので、ご存知の方も多いでしょう。しかし現在、その記事を読むことはできません。「本来は知人に向けた文章であり、その想定を超えてあまりに拡散されてしまった」「友人や家族にまで迷惑がかかるようになった」という理由からご本人が削除されたためです(なので関連ページへのリンクは自粛したいと思います)。この状況について、皆さんはどう受け取られるでしょうか。
気持ちが理解出来る、という方は少なくないと思います。誰かを弔う気持ちを文章にして、誰かと共有したいという願いは決して特殊なものではありません。いや弔意だけではなく、嬉しい気持ちや切ない気持ちなど、人は様々な感情を形にして、公にしたくなる生き物です(もちろん逆に秘めておきたいという場合も多いですが)。しかしその「共有」が度を超えて行われるようになってしまった場合には、戸惑いを感じて当然でしょう。
一方で「ネットで公開されたものは拡散して当然」という、原理主義的な意見もあると思います。一度公開された情報は発信者の意図や思いを超え、拡散・消費・再利用されるもの。イヤなら公開するな、知らなかったのならリテラシーのないお前が悪い――というわけですね。あえて極端な書き方をしてしまいましたが、この考え方もある意味で真理であり、特に現在のネットを利用する際には心に留めておかなければならないことだと思います。
僕も後者の「ネットで公開されたものは発信者の手を離れる」という事実を頭では分かっているつもりです。しかしその全体像を正しく理解しているかというと、自信はありません。いまネット上で「パブリック」にしたものは、実に様々な方法で拡散され、再利用されて行きます。僕が上記の記事を知ったのは「はてなブックマーク」上でだったのですが、そのコメント欄を通じて様々な心情が吐露され、また記事に書かれていなかった情報までが追加されていました。また間違いなく、ツイッター上でも様々なツイートが飛び交っていたことでしょう。
つまり新しい「パブリック」は、際限なく膨張し得る性質を持っていると言えるのではないでしょうか。考えてみれば、これまでも「パブリック」に置いた情報は発信者の手を離れて歩き出すものでした。しかし従来であれば、物理的な距離や発信コストなど、様々な制約によって拡散・共有に一定の限界が訪れます。ところがネット上の「パブリック」にそのような制約はなく、さらにソーシャルメディアは情報の融合と再利用を促します。それがさらに共有される情報の「コンテンツ」としての価値を高めるという場合もあるでしょう(面白くないテレビも皆で観れば楽しくなる場合があるように)。
そうした膨張がどこまで達するのか、あるいはどのタイミングで何を契機として膨張するのか、ケースバイケースであり誰にも正しく予想することはできません。さらに従来の「パブリック」ではなく、まったく新しい状況に対応する以上、良く言われる「リテラシー」を駆使して対処せよというのも難しい相談でしょう。また予想できたとしても、それを制御することは非常に困難です。前回の書評でも引用しましたが、『パブリック』にこんな一節があります:
"Privacy was once free. Publicity was once ridiculously expensive," says entrepreneur Sam Lessin. "Now the opposite is true: You have to pay in a mix of cash, time, social capital, etc. if you want privacy."
起業家のサム・レッシンはこう語っている。「かつてプライバシーは無料で手にすることができ、注目を集めるには非常にコストがかかった。ところが現在では、正反対の状況が生まれている。プライバシーを守りたければ、お金や時間、社会的資本など、様々なものを費やさなければならない」。
常に膨張し、制御されることを嫌い、「プライベート」な部分を浸蝕しようとしているもの。それが新しい「パブリック」の一面であると思います。
もちろんパブリックはデメリットしか生み出さないのではなく、それによって共感や連帯感、知識の進化やイノベーションなど、様々なメリットをもたらします。先ほどの記事で言えば、筆者に対する理解がより深まったという知人の方は多かったでしょうし、同じ境遇の方々に力を与えるという側面もあったはずです。しかし発信者の理解を超えてそれが行われるのだとしたら、やはり問題であると言わざるを得ません。
NTTドコモのCMでは、スマートフォンが渡辺謙に擬人化されて登場します。楽しいときも、悲しいときも常に側にいてくれて、自分の気持ちに共感してくれる親切な存在。それは同時に、新しいパブリックの姿であると言えるかもしれません。しかしその「渡辺謙」はあなたの言動を裏でメモしておいて、勝手に知らない会合に出かけて行き、メモを囲んで何かを相談するかもしれないわけです。そんな制御不能であるという側面についても、私たちはより深く理解して行く必要があるでしょう。
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