テレビ局こそ、Employee Generated Mediaに目を向けるべき
棚橋さんから、「企業の未来のための企業Webサイトの見直し」でレスポンスをいただき、非常に心強く思いました。幣ブログでも何度か取り上げてきたトーマス・フリードマン「フラット化する世界」もやはりこの話題の範疇にあるわけです。
Outlogicの投稿「情報の文明学(梅棹 忠夫)」経由で同書を読み始めています。この本はたぶん、テレビ業界の人たちがいま読むと、すごくいいのではないでしょうか。以下のような、テレビにとって非常に本源的な問いかけがあったりして、はっとさせられます。
-Quote-
まったく、ラジオもテレビも放送してしまえばおしまいだ。どんなに苦心してうまくつくりあげた番組も、一回こっきり、あとになんにものこらない。そのために、何日も、何週間もまえから、ひじょうな努力をはらうのである。これはひきあうことだろうか。
-Unquote-
放送は一回性のものである。放送してしまえば後に残らない。後に残らないというのは、「それが見たくても見れない人が多数出てくる」ということ。そのことに、放送人(梅棹氏の造語)は、これまで真剣に答えを出そうと考えてきたことがあったのかどうか?もちろん、人気が高かった番組を再放送するというやり方はあるにしても、それでも救えない「見逃してしまった人」のことを、何にも考えてこなかったのではないか?
ソニーが「タイムシフト」の概念を新規に考案して、米国で裁判を戦っていた時、放送人の人たちはそれをわが事として考えねばならない時がくるということをおぼろげながらに思ったのかどうか?
電機業界の人たちが一生懸命に録画装置を開発し、機能を高度化させてきたなかで、放送人は、そのことに、わが事としてどう関わってきたのか。むしろ、わが事ではないとして傍観してきたのではないか。
YouTubuがいま、中学生などにも広く見られるようになっているということは、そうしたことに放送の人たちが答えを出してこなかったからではないのか?という風なことをつらつら考えてしまいました。
けれども改むるに遅すぎるということはありません。
上の棚橋さんの投稿のなかにあった次のフレーズ、
「そんなこともあってCGMに対して、EGM(Employee Generated Media)なんてことを思いついたんです。そして、それは単にビジネスブログだけを指すのではなくて、企業WebサイトそのものがEGMなのではないかと思っています。」
で思ったのは、まさに放送の人たちこそが、EGMとして、自分たちが作った番組に関する熱い思いを込めた投稿なりページなりを日ベースで更新していける、非常に有利な立場にいるのではないかということです(EGMがいかなるものかについては、棚橋氏の関連投稿を参照。EGMはたぶん、スケールフリーネットワーク化する経済社会において、キーになる戦術だと見ています)。もちろん、そこに、まさに自分たちが作った番組を貼り付けていけばいいわけです。YouTubeに誰かが投稿してしまう前に。
仮にそれを自分たちがやらないとすると、これからますます加速化する汎コンテンツ時代にあって、自らの番組にアテンションをひきつける方策を持たないまま、たとえばはてなブックマークのような、あるいはYouTubeのような、サードパーティが提供するWeb2.0系のアテンション還流の仕組みに依存して認知を高めていかないといけないということになりかねません。それはたぶん愚策です。
「どんなに苦心してうまくつくりあげた番組も、一回こっきり、あとになんにものこらない。」放送の人たちは、梅棹氏が1961年に書いたこの文章に対する答えを、いま、わが事として出す時期にさしかかっているのではないでしょうか。