オルタナティブ・ブログ > インフラコモンズ今泉の多方面ブログ >

株式会社インフラコモンズ代表取締役の今泉大輔が、現在進行形で取り組んでいるコンシューマ向けITサービス、バイオマス燃料取引の他、これまで関わってきたデータ経営、海外起業、イノベーション、再エネなどの話題について書いて行きます。

集合知の先で「集合的経験」を措定してみた

»

現在のようなネットワーク環境において集合知(Collective Intelligence)が成立するとすれば、そろそろ集合的経験(Collective Experience)という概念を措定してみてもいいのではないか、ということを考えます。

Collective Intelligenceの"Collective"がユングの言っていた"Collective Unconscious"の"Collective"に由来するものであろうということは、ユング関係の人たちなら誰もが気づくことでしょうけれども、文献学的に証明するとなると大変なんでしょうね。私としては、両者には相応のつながりがあるという理解で進めていきます。

先日、私が記した以下の投稿はまさに集合的経験を扱ったものでした。

ゆるく長く続く「GAME」共時経験、言及つきニコ動つき

特に以下の記述。

-Quote-
こうした経験の中身は一様ではなく、その人のいる場所、Perfumeとの関係の持ち方、Perfume支持期間の長短などでかなり色合いが違うと思います。
けれども、比較的同じような時期に同じ「GAME」を買って、同じ盛り上がりを共有しているぐらいの意識はあるように思います。ゆるく、週単位で続くシンクロニシティのようなものを共有している図式になっています。

こういう、場所にもモノにも制約されない経験、あえて言えば、実体は脳の中にしかないような経験。そうした経験を、ある日ある時という時日の限定を伴わない形で(そこそこ長期にわたって)たのしんでいくことになるわけです。

このような脳内においてのみ集約が可能な不特定多数の人による共時的な経験とは、たぶん、あたらしいジャンルの経験価値として定義されていいんじゃないかと思います。
-Unquote-

・集合的経験はネットワークの利用が一般化した現在において初めて成立する。(ユングが想像すらできなかったものである可能性が高い)
・集合的経験はネットワーク上の活動や経験とリアル空間での活動や経験とがあいまったものである。
・集合的経験全体を1人の個人が正確に把握することは(多数の人にまたがる経験の全体量が膨大であるがゆえに)不可能だが、経験の集約点は個々の参画者の脳裏に明確に存在している。
といったことが言えるんじゃないかと思います。

「GAME」以外で言えば、「ウェブ進化論」の登場の仕方、読まれ方、言及投稿の広がり、それを観察し積極的に記述していった梅田望夫氏本人の姿勢等々は、集合的経験の典型だと言って間違いないでしょう。

集合的経験の特徴は、第一に、自分が読者としてその事象を読んで観察することもできれば、自分が主体として積極的に経験しつつ、それを記述することもできるという、主体と客体の二面性にあります。観察しながら経験でき、経験しながら観察できるわけです。
これはユングが用いた夢分析にある構図に少し似ています。

第二に、リアルタイムで起こっている事象へ注意を払ったり、積極的に関与したりしながら、自らを事象に同期させるということがある一方で、その気になればアテンションをオフにして非同期にしたりすることもできるという、あえて言えばゆるやかな同期が可能であるということも特徴的です。これは結果として、少し前に濱野智史氏が言っていたニコ動の「擬似同期性」とほとんど同じものになります。

初音ミクやアイマスMADを集合的経験として捉えると、すごくしっくりきますね。また、現在20万以上のビューを獲得している吉幾三×Capsule×DaftPunk×BeastieBoys StarrySky - IKZOLOGIC Remix -も、クラブミュージック系マッシュアップ動画の新しい可能性に気づかせてくれた集合的経験になりつつあるという感じがします(先日取り上げた時には4000弱のビューでしたよ)(この集合的経験からはIKUZOボタンも派生してきているし)。

こうした集合的経験から何がもたらされるのか?
歴史的に例をみない状況がここにはあるので、誰も正確に予見することはできないはずです。ネットワーク上の創発とはそういうものです。まったく新しいものが出てくるんでしょう。

1つだけ言えるのは、ユングの方法論にならって言えば、個人的な無意識の内容は(夢を)”記述する”ことによって意識化することが可能であるので、集合的な無意識の内容は、集合的な経験を”記述する”ことによって意識化することが可能であるかもしれない、ということです。
つまり、集合的経験を色んな人が経験してネットに書き付けていくことで、それまでは集合的無意識のなかに沈んでいた何かが意識化される可能性があるということです。別な言い方をすれば、たった1人では経験することも意識化することもできなかったことが、この新しい環境において意識化される可能性があるということです。これはまったくの新しい地平ですね。

ユングの文脈では、”意識化”とは課題を解決するための手がかりの獲得に他なりません。従って、集合的経験が色んなところで記述されることにより、いまの日本の社会が抱えている課題(それがどういう課題かは予見不能)の解決の方向性が明確になる…可能性がある…と言えるわけですね。

と、ここまで書いたことは、あくまでも”論”であるので、本当に正しいかどうかはわかりません。このように述べることが可能であるというに過ぎません。正しく学の基盤がある方がしっかりとこの周辺を解明してほしい気がします。

Comment(0)