「CEO」って何する人なんでしたっけ?・・・一・平社員の感じたこれから。
先般、『ブロガーズ・ミーティング@IBM「CEO Study」』というイベントに参加させていただいた。その会の内容に関しては、早速多くのオルタナのブロガーさん達が書かれているので、ご参考にされたい(以下のリンクは、2008/07/06 AM0:00現在)。
■IBM CEO Study 2008/07/02
たぶん自分の実力値では、内容そのものに関して、上記のリンク以上のものは書けない。(最近は開き直るのも覚えてしまった・・・良いのやら悪いのやら・・・)。
会そのものの内容としては濃く、自分は一方的に情報をもらうだけの立場ではあったけど、勉強にはなった。でも、すぐのエントリーはできなかった。自分の中で消化不良を起こしていたからである。普段、スーパーの閉店セール品ばっかり食べている自分が、急に高級料理店でフルコースをいただいたような・・・。とてもおいしいんだけど、その金額差違に見合うおいしさの違いを自分の慣れの無さから表現しようが無い、というか・・・。ご講演いただいたIBCS常務の金巻氏はどんな質問に対しても真摯に答えてくださったので、非常に稚拙な質問ばかりする自分ではあったものの、優しく受け止めてくださった、とは思う。でも、自分は自分で途中で質問したいポイントがよくわからなくなってしまった・・・。だからなおのこと、自分のCPU速度に見合う、ちょっと冷却期間をおいた後、エントリーをさせていただこう、と思った。
結果から言えば、未だにまとまりきれない。でも、人から話を聞く場をもらっておいて、(レベルはともかく)某かのアウトプットをしないのは、卑怯か、と思うので、恥を忍んで書いてみる。だから非常に散発的なエントリーになることを初めにお詫びしておく。それこそ、金巻氏や場を中心的にセッティングしていただいたIBM広報の栗原氏からすれば、「参席してもらって失敗した・・・」と思われるかもしれないが、あくまで、一・平社員の感じた視点から、感じたままに、徒然なるままに書き散らさせていただきたい。
■前提1~「CEO」って何する人?
そもそも、自分は「CEO」たるものが何をする人なのか、きちんと定義できていなかった。日産で、カルロス・ゴーン氏が「CEO」を名乗っていることは知っている。「Chief Executive Officer」の略語であることは知っている。日本語で、「最高経営責任者」と訳されることも知っている。でも、じゃあ、最高経営責任者とは、何をどう責任を取ることなのか?、日本で言うところの、社長や会長と何が異なるのか?、よく理解もせぬままブロガーズミーティングに臨んでいたことに気が付いた。
@ITの情報マネジメント用語辞典に、CEOの説明を見つけた。以下、転載。
米国型企業において、経営実務に責任と権限を有するトップマネジメント担当者のこと。
米国型コーポレートガバナンスでは、企業の“所有”と“経営”を分離して考え、所有者(株主)を代理する取締役会が、業務執行を行う執行役員を任命・監督するという形態となっている。この執行役員のトップがCEOである。
社長(president)、会長(chairman)とは異なる概念で、米国企業ではCEOとは別に社長や会長がいる場合もあるが、実際には取締役会会長とCEOを同一人物が兼ねるケースが多い。この場合、企業の全決定権を委任されたことになり、米国型コーポレートガバナンスの欠点とされる。CEOは企業経営を行ううえで大きな権限があり、成果を上げれば莫大な報酬を得るが、取締役会によって「成果を上げられない」と判断された場合はすぐに解任させられる。
むろん、日本の商法でいう「代表取締役」とも異なるが、比ゆ的に同一視する場合もある。ただし、日本でも、2003年4月施行の改正商法で「委員会等設置会社」(2006年5月施行の会社法で「委員会設置会社」に名称変更)と呼ばれる米国型コーポレートガバナンスに近い制度が導入され、「代表執行役」「執行役」が設置できるようになっている。
うーむ。所有をしている人が経営しているようなケースもあちらこちらにある、と思うのだが、その場合はCEOを名乗れないのか?CEOは莫大な報酬と解任の「アメとムチ」が無いと成り立たないのか?
■「CEO」としてのサンプル抽出条件は妥当なの?
その観点に沿った時、IBCSの「Global CEO Study 2008」の調査対象となった、CEOの全世界で1130名、日本で121名、という人達が、そもそもこの概念を満たす人なのかどうか、で話の捉え方が全然変わってくる、と思った。
- 経営のプロ、として、企業を渡り歩けるような人(自分のつたないイメージで言えば、新生銀行の八城政基氏や、マイクロソフトの樋口泰行氏や、アップルの原田永幸氏のような人)
- 所有と経営は分離されているが、ある意味、その会社におけるステージをクリアしてきた結果、今の地位にある人(同じくつたないイメージで言えば、トヨタの渡辺捷昭氏や日立の前社長庄山悦彦氏や東芝の前社長西室泰三氏とか)
- 所有と経営は分離している・・・と世間には標榜しつつも、事実上、同じ人になっているケース(松井証券の松井道夫社長やジャパネットたかたの高田明社長、鉄道系の同族社長等)
(まだ他の分類方法は多々ある、と思うが、一応、これで置いておく)
前述の標本サンプルが、上記1.~3.をまんべんなく満たした状態で調査されているものであれば、どれも同じような傾向、と言えるのだが、そのデータは無い。疑いたくは無いが、ある意味、「そうだよな!」という確信を持つためには、プロフィール的裏付け情報も欲しい、と思った。
(注:既存の英語による詳細レポートにはあるのかもしれない。でも、自分の英語力から、はなから諦めました。問題あれば関係の方、ご指摘願います)
■前提2~そもそも一般職は「CEO」と絡まないぞ
調査として、「CEO」はいかに自分の会社をどうしたい、と思っていて、それが特に変革を求めていて、かつ、昨今の経済事情をネガティブに捉えるのではなく、チャンス、と捉えている、という話が多々あった。
にも関わらず、自分の抱えているスタッフ達が、能力不足で、それを捉え切れていない、という結果もあった。
それは、「CEO」が自社の実力値を正確に捉えられていないだけではないのか?と思った。一方、それに関する質問を金巻氏にした時、
「CEOは万能の神では無いので、何でも知っている、と思うのは誤り」
「CEOに期待してはいけない」
という回答があったように記憶している。
同じ人間である以上、それはそのとおり、だと、自分は思う。
また、企業運営は、”上司命令”だけで遂行されるものでは無いので、まず、自分達がどう動こうとしているのか、が先であるので、それもそのとおり、だと、自分は思う。
でも、仮に、自分が信念を持って、誰に対しても自信を持って説明できることを”直上”の上司が理解できなかったから、と言って、動けなくなるような事象がある時、それは企業にとっての損害では無いのか?
もしくは、内容もしくは人材育成の面から明らかに肩入れすべきでは無い領域に、ある中間層が介入することによって生まれる軋轢や無駄の発生について、枝葉末節なことだから、と見据えていていいのか?、という部分が、平からすると、よくわからなくなってくる。
企業規模、を示す言葉には色々なものがある。売上高、利益額、資本金額、従業員数等・・・。仮に、売上高が全く同じ企業があった、として、従業員数が10人と100人の10倍差であれば、「CEO」の想いの伝わり方も、また、それぞれの社員の個性なんかも理解され易いかもしれない。でもこれが同じ10倍でも、1000人と10000人の10倍差であれば、きっと「CEO」の考えが正確に従業員に伝わることも困難な面があると思うし、逆に従業員のそれぞれの能力、考えていることの全てが「CEO」に伝わることも困難だろう。
■現在の企業の成り立ちと従業員の構成を冷静に判断できているか?
例えば、ある分野で独占的な市場を持つ、もしくは他が追随できないような技術力を有している、という企業があったとする。その企業に入ってくる従業員は、少なくともその優位性について高評価をしたから入りたい、と考えるのだろう。けれども、必ずしも、その評価の仕方は、その優位性の内容だけではなく、優位性によってもたらされる将来的な安定であるとか、「世間に名が売れているから」という安易なものによってなされている場合も少なくない。
よりその企業が大企業化すればする程、”安定”を志向する社員が増えてくる。その専門分野が自分の一番やりたい領域なので、それを貫ける、と思って・・・なんて社員は悲しいぐらい少なかったりして。
内部統制を働かせなくてはいけないから、もしくは機動的に企業を運営するため、ということで細かい小集団に分ける。機動的に運営させるためにはある程度、判断する権限を与えないといけない、ということで権限の委譲を行う。権限の委譲を行われた側、としては、自分達の権限の委譲を行われた範囲に置いて、責任を全うしよう、とする・・・。
IBCSの調査で言えば、これからの企業は、「Globally Integrated」(グローバルインテグレーテッド・エンタープライズ)に向かうべき、としている。
引用させてもらうと、
構造:世界中に一番ふさわしい場所にそれぞれの機能を分散させ、「適正な場所で、適正な時期に、適正な価格で」経営資源を最適化する企業
海外子会社の役割:経営資源の統合による効率性とイノベーションを実現しながら各地域市場に適合
競争優位の源泉:知識の移転、共有、活用
ということができているのが、グローバルインテグレーテッド・エンタープライズ、だろうだ。
その障害の第一位、と「CEO」が判断しているのが、”タレント(人材)/マネジメント能力の不足”らしい。特にそれが日本ではより大きなパーセンテージを占めている、という。
ここで、”タレント(人材)/マネジメント能力”を純粋にその一人一人の個人的能力やポテンシャルの保有、というところで見るのであれば、決してそんなはずは無いと思う。でも、それをどう活かすか?どう見せていくか?という個人の想い、その現場現場においてどう自分が振る舞うべきか?、また、そういう人達のそれぞれについてちゃんと適性を見て、もしくは適性で無い、としても、この局面ではこう振る舞って欲しい、という想いを伝えるべきミドルマネジメント層の役割も含めて能力云々を言うのであれば、確かにそうかもしれない。
でも、それをその人達だけのせいにするのは間違っているように思う。
■ITと成果主義の功罪
多くの、それなりの企業のトップに近い人達は昔、「俺達は若い頃から大きな仕事を任されてきた」、「今の人達はチャレンジ精神が無い」とか言っていたりするが、そこには、明らかに現在と違う”情報量の有無の差”があったはずである。
昔は誰しもが”情報量が無さ過ぎて”、もしかすると、他も同じことをやっているかもしれないが、そんなことを知る由もなく、またそれが失敗に終わっていた、としても、失敗していたことを知る由も無かったのでは無いか?だからこそ、リスクヘッジしようにも、そこにどれだけのリスクが存在するかを合理的に証明する術も無ければ、そこに対して説明を求めて判断を下す側にとっても合理的に判断できる材料が無かっただけだと思う。
したがって、完全に、今、直面して持ち得る情報と、それを遂行しよう、とする人間の適性を判断するしか、賭けられる要素が無かったように思う。
現状はどうか。
ITの進歩により、マスメディアに限らず、個人も含めて情報を発信できる方法は山のようにある。似たような事例を他がやっているかやっていないか?、それが成功に終わったか失敗したのか?、いくらでも簡単に手に入れられる。皆が同じようなことをやっていることがわかっている中で、その中に眠る、もしくは化けられる金脈を見つけ出せる感性を本当に持っている人は確かに少ない。そんな中で、「やっていない」と思い込めるかどうか、「やっていた」としても、それは自分達じゃ無い奴がやったからうまくいかなかったんだ、と思い込める自信があるかどうか、見つけた時に賭けられるかどうか?、そこまでの肝の据わった判断ができる人は残念ながら少ないような気がする。結局、情報量の多さを、武器にするのではなくて、自分達の保身のためにしか使えていなかったり。
また、評価制度というものが、一年に一回、もしくは半年に一回、というスパンで行われる中、大きなホームランを2、3年に一回打てるか打てないか、よりも、確実にヒットを4割打ち続けられるかどうか、によって将来が決まる。ポジションが上がらないと、まずその打席に立てるかどうかもわからない。大きなホームランを打ったところで、「まぐれかもしれない」、「他の目もあるから、いきなり飛び越えたことはできない」という現実的な路線で、それこそ評価制度そのものでも”他と違うことをすること”についてリスクを背負いたくない、背負うことによって、逆に自分自身がまたその上のマネジメント層から、リスク、と感じられるのでは無いか?というおびえみたいなものがあるマネジメント層も居る。この時代においてでも、「何の仕事ができるか?」ではなく、「そのポジション”名”(←あえて書く)を手に入れること」を重要に思っている人が実際に居るのである。
社長 > 事業部長 > 事業部副部長 > 部長 > 課長 > 係長 > 係員、なんていう組織構造でブレークスルーはなかなか生まれにくいのでは無いか?金巻氏は「決して組織体系のせいにする問題では無い」とおっしゃっていたが、同じように金巻氏がおっしゃった「組織の底辺には感情がある」という”感情”の問題で、なんとなく、「このままではまずいんじゃないの?」と思っている平が多い中でそこにメスを入れられない場合にも、変革はやはり生まれにくい気がする。
このあたりは、丁度先日、辻さんがスパッと切って下さっている。そのとおりだ、と思います。
■日本の場合(?)の特殊事情
正確には日本だけに限らないのかもしれないが、
- 保護行政の下に展開されてきたビジネス しか持たず、
- 他国への展開を行うのには、多少なりとも改変が必要、という状態で、
- 他国への展開ができた、としても、その母体、となった日本国内のビジネスについては、明らかにこの先のビジネス展開に暗雲しか無い、としても見栄や世間体に対して申し訳が立たないので撤収できない
といった企業も多いように思える(かなり偏向した見方かもしれないが・・・)
■いくつかの未来企業のイメージから
未来企業へむけての「変革の可視化」ということで、いくつかの変革パターンが紹介されていた。こちらも、転載。
- 変化の速さを機会ととらえる
- 顧客の想像を超える
- 世界中の優れた能力を活用する
- ビジネスの常識を破壊する
- 社会問題に誠実に取り組む
これらの例にあてはまる、とされる具体例の企業紹介もあったのだが、自分がこの分類で言われた時に、ふっと思ったのは、次の二社だった。
顧客の想像を超える・・・任天堂
ビジネスの常識を破壊する・・・ジャパネットたかた
任天堂については、ファミコン、スーパーファミコン、で圧倒的優位を稼ぎつつ、ソニーのプレイステーション、プレステ2、という猛攻に対して、NINTENDO 64で一旦、高スペック路線で対抗をしつつも、プレステ3の脅威に対し、高スペック路線ではある意味対抗のしようが無い、負けは負けと認めて、同じ土俵で戦わない、とした所が、かえって自分達の発想をうまく引き出せたのでは無いか、と思っている。
ジャパネットたかたについては、先日も小林さんがソフト面について書かれていたが、いわゆるかつてのテレビショッピング系通販の常識を破壊してきたから、今の地位があると思う。ジャパネットたかたについてはちょっと色々書きたいことがあるので、ここでは詳しくは触れない。
■ITは何に寄与できるか?
前述ではITの功罪について書いてしまったが、では寄与できるところについて。
参席されていた平尾さんがおっしゃっていたことがちょっと心に残った。
「グローバリゼーションを目指す中、色んな意味でのダイバシティを受け止められるツールをITでは実現できるのでは無いか?それは決して”翻訳”とかの狭い領域だけではなく・・・」
確かに。
また新倉さんはこうおっしゃっていた。
「ITは人を超えられない。ITを主体に考えるとおかしくなる。」
それもまた然り。
これからも人が中心になることは紛れも無い事実。そして、グローバリゼーションに向けて人と人が従来では考えられなかったようなつながりを作っていく中、単純に言葉やロケーションの問題だけではなく、どうしても超えられないような社会背景や歴史観への理解まで吸収できるとしたら、一部に見られるような”IT限界論”や”ITに使われる社会”ではなく、人間が主体となって、真の意味でITが寄与するビジネス環境が実現できるように思う。
■最後に・・・
思いの外、長文になってしまった。自分に”まとめ”というスキルが無いことを露呈させている。まぁ良いのだ。「ありのまま」の自分で行こう、と決めたのだから。まさかここまでお付き合いいただいた方は居られない、と思うが、もしいらっしゃったら改めてお礼を言います。
最終的に言えば、自分の思う理想の「CEO」とは、顧客の想像を超えるだけではなく、従業員の想像を超える道しるべを思いつくことができ、それに対する信念を持ち、戦術の組み立て方はわからなくても、何となく、自分の会社の人的資源を含めた資源をどう活用すればできそうか、という粗々なマップを描けていて、それの阻害要因を全て取り除くことができる人、かもしれない、と思った。・・・それは「COO」なのか?
まだまだ勉強が足りない、ということがわかった。