内田樹氏の投稿「めちゃモテ日本」を読んだ
内田樹氏の投稿「めちゃモテ日本」を読んだ。たしかにおもしろい論考だと思う。ただ、内田氏が前提にしている時代の変化の速度がやたらと速いということがすごく気になった。
▼今泉が捉えている時代の変化のスピード
「フラット化する世界」でリアルに描かれていたスケールフリーネットワーク化の影響は、世界的に見ればまだ局所的に顕在化しているに過ぎない。日本においては、ほとんどの分野ではこれからなのだろう。
▼内田氏が捉えている時代の変化のスピード
スケールフリーネットワーク化(内田氏はグローバリゼーションという言葉を使っている)の影響は日本においても先行する若年層(30歳前後?)においてすでに明らかであり、より若い世代(20代半ば?)はそれを学習した上で、従来とは異なる戦術を取り始めている。
今泉が捉えている現在は、Web2.0で括られる2006年半ばに多少毛が生えた程度であるのに対して、内田氏が捉えている現在は「ポスト北京五輪 やや悲観シナリオ」とでも言うような先走り感がある。「予言を急ぐ」とでも言うべきか。
彼が時折挿入する「それは確定してしまったのだ」的な言い方がすごく気になるのである。
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社会的リソースを競争の「勝者」に優先的に分配する「グローバリゼーション・システム」においては、自己責任でシティライフを享受できるのは、「強い個人」に限られた。
「親方日の丸・護送船団方式」の廃棄、家族の解体によるセーフティネットの破綻、終身雇用制の崩壊、非正規雇用の拡大、教育崩壊、医療崩壊、年金不安、ネットカフェ難民・・・といった一連の「グローバリゼーションの暗部」は「弱い個人」たちを標的にその生存をリアルに脅かしつつある。
グローバリゼーションに国民が拍手を送ったのは「自分もいずれ勝者になれる」という(根拠のない)夢を国民の過半が自分に許したからである。
もちろん、そんな夢は実現しなかった。
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「もちろん、そんな夢は実現しなかった」。この断定の仕方。これは本当か?もうすでに、終わってしまったこととして語れる状況が訪れているのか?
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結果的に「自分程度の才能では、いくらじたばたしても社会的勝者になる見通しは薄い・・・」という痛苦な事実を先行世代の「負け」ぶりから学習したより若い世代は、「強者が総取りする」競争システムよりも、「弱者であっても生きられる」共生型社会の方が自分自身の生き残りのためには有利だろうという判断を下した。
合理的なご判断であると思う。
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自分の周囲には20代の学生がいないので、ほんとうに彼らが考えていることを知るよしもないが、それにしても「先行世代の『負け』ぶりから学習したより若い世代」と書けるほどに、「先行世代の『負け』ぶり」は確定したことなのか?また、現実に、一部だとしても20代前半の学生たちはそうした学習をしているのか?(だとすればものすごいとしか言うほかない)
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みんなにちょっとずつ愛されるそんな「CanCamな日本」であることが21世紀の国際社会を最小のコスト、最低のリスクで生き抜く戦略だということを無意識のうちに日本人たちは気づき始めている。
そんな気がする。
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「無意識のうちに日本人たちは気づき始めている」。これも本当にそうなのか?内田氏の夢想ではないかという感じがすごくする。
自分の時代感覚で言えば、特に、日経およびインターネットおよび勤務中のC社のグローバルな舵取りから時代感覚を仕入れている自分の視点では、①日本企業全般にファイナンスの真髄が浸透しつつあり、経営がよりモダンになりつつある、それに伴って、新しい事業機会が多数生まれている、②企業価値に果たすイノベーションの意味がよく理解され始めている、ただし組織としてイノベーションをどう動かすかという現実的な知識の獲得はまだこれから、③差異を生み出す個人に関するコンセンサスができつつある、これが若年層の一部に対して新しい学習カリキュラムの選択を促しつつある(少なくとも、人が行くから自分もあの大学に行くといった選択がマイナーになりつつある)(この差異を生み出す個人というのは、必ずしも現在のシステムにおける勝者という意味ではない。むしろ現在のシステムを相対化する作用を持った個人である)、といったところである。
何かが終わってしまったというのではなく、何かが始まろうとしているという感じがすごくある。
史観の違いというか、体感速度の違いというか。若年層が氏の悲観を真に受けてしまうと、あまりよくないと思う。若年層は、偶有性が持つポジティブなパワーをもっとあてにしてもいいのではないかと思う。