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株式会社インフラコモンズ代表取締役の今泉大輔が、現在進行形で取り組んでいるコンシューマ向けITサービス、バイオマス燃料取引の他、これまで関わってきたデータ経営、海外起業、イノベーション、再エネなどの話題について書いて行きます。

ネット・アイデンティティのモデルは「芸能人」

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インターネットやケータイでアクセスできるネット領域の滞留時間が増えるようになると、人間誰しも、ネット上のアイデンティティを確立するように動くのではないか、というのが私の仮説です。
人はどういう土地でもアイデンティティなしには動けません。会社であっても、地域社会であっても。学校であっても。

自己同一性。自分が自分であること。自分がひとつのまとまりを持った存在としてそこにいること。ある時間の流れにおいて自分の特徴ある生を振り返ったり反省したりできること。そんな風なことが、ネットにおける生においても必要だろうと思います。

ハンドルを使うにしてもコテハンを使うにしても。実名を出すにしても出さないにしても。ネット上ににじませた自分のキャラクターを頻繁に変えることが好きだという人はあまりいないでしょう。
仮にキャラクターを頻繁に変えて生きるとしても、そこに自ずと自己同一性が表れるものであり、後から第三者が振り返ってみれば、そこにくっきりと「○○君だ」という特徴が認められるはずです。自分が振り返ると、もっとはっきりわかるでしょう。「あれは自分なのだ」と。
要はネットにおいても、そこで生きる以上は自ずとアイデンティティが伴うということです。

ネットのアイデンティティの本質は、それが公開を前提としているということだと思います。
掲示板にコテハンで書き込む。そこに表れる彼・彼女のアイデンティティは、「そこにキャラを持った存在として書き込んだことを複数の人間に知られること(あるいは見られること、または読まれること)」、で形が定まります。ネット上で行うすべての行為は、第三者が知る、見る、読むことを前提としています。第三者が絶対に知ることができない、見ることができない、読むことができない行為というものがあるとすれば、それはネット上の行為ではない。そういうことが言えるんではないかと思います。

ネット上のアイデンティティは自分の行為の公開を前提としている。そうだとすれば、そうしたアイデンティティを持つ個人のモデルになりうるものは何か?

それはたぶん芸能人である。最近の私の結論です。

芸能人は、自分の行為が見られたり知られたりすることで成り立っている職業です。プライベートな時間はあるものの、多くの場合は、非芸能人に見られることを拒絶することができないところで生きなければなりません。つまり、見られる生なわけです。このへんがかなりネット・アイデンティティと通じるところがある。

では、芸能人的な生がネット・アイデンティティのモデルであるとすれば、そこから何が導かれるのか?松田聖子女史のように、郷ひろみ氏のように生きよということなのか。宇多田ヒカル女史のように、m-floのVERBAL氏のように生きよということなのか。杉浦太陽氏のように、辻希美女史のように生きよということなのか。

おそらくは自分のネット・アイデンティティが公開を前提としているということを理解するようになると、彼らに向けられる視線というものも、本質的に変化するはずだと踏んでいます。ものすごーくジャンプしますが、そこから、芸能マスコミは間違いなく終焉に向かっているという結論にまで持っていきたい今日この頃。

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