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株式会社インフラコモンズ代表取締役の今泉大輔が、現在進行形で取り組んでいるコンシューマ向けITサービス、バイオマス燃料取引の他、これまで関わってきたデータ経営、海外起業、イノベーション、再エネなどの話題について書いて行きます。

「池袋ウエストゲートパーク」全話を観て

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今回も傍流のネタになってます(これから赤坂マロウドイン泊なもので)。

2回の週末を使って、ずっと観たかった「池袋ウエストゲートパーク」を観ました。本編11話分。スペシャル編として作られた「スープの回」はリアルタイムで観たので、今回はパスしました。

殺人、援助交際、リンチ、盗聴、引きこもり、学習障害、不法滞在、チーマー同士の抗争、スピード、性同一障害、多重人格、マルチ商法と、2004年当時にメタファーとしての池袋(すなわち日本の小都会)で問題とされていたものの、おそらくはすべてを題材として、ワンダーランドに仕立て上げたという作品だったわけです。
これはドラマであり、趣向を競う作品であるので、題材の取扱方法がシリアスであるかどうかは不問に付すべきもの。おもしろいかどうか、ひたすらその点で評価されなければなりません。

石田衣良の原作を読んでいないので、この作品を貫いている「ワンダーランド化による演劇性の獲得」が原作に拠っているものか、脚本家の個性に拠っているものか判断がつきかねますが、映画「ピンポン」の印象からすると、たぶん絶対に宮藤官九郎が狙ったところのものなのでしょう。

結局、上に挙げたすべてのシリアスな問題が、この作品では”題材”となって、個性的なキャストによる”演じ方のおもしろさ”によって料理される対象となっているわけです。このようにして非常にシリアスな問題をブラウン管の向こうの虚構の後ろ側へ追いやってしまうことは、作劇術としてみれば、ひとつの良識です。誰も、援助交際やリンチや盗聴や引きこもりなどを扱った、延々とシリアスな勘違いしたドラマなんかを見せられたいとは思いません。1960年代ならいざ知らず。
そういう点で、視聴者の嗜好にすごくマッチした仕立てになっており、大いに共感できました。

ただ、非常にうがった見方をすると、そうした本ドラマの全般をおおう面白さは、毎回見続けさせるための脚本家による味付けであって(演出もかなり噛んではいるのでしょうが、圧倒的に脚本家の功績が大きいと見ます)、本当のところ、最後の最後のところで、この脚本家が描きたかったのは、「暴力の連鎖をいかに止めるか」ということだったと思います。

昔読みかじったルネ・ジラールによれば、暴力は伝染性を持っており、何かの枠組みがなければ血が流れ続けるということがあるのだそうです。それをストップさせるために存在しているのが供犠です。

供犠とイエス・キリストの関係をきちんと書こうと思うと、2晩ぐらい徹夜しなければいけなくなるので、それはよすとして、要は、ルネ・ジラールの言いたいことをごくごく簡略化すると、暴力の連鎖を止めるには誰かが犠牲になって死ななければならない、そういう文化的社会的歴史的な現象がある、とのことであります。

この「池袋ウエストゲートパーク」では、虚構のなかとはいえ、けっこうふんだんに血が流れて、その都度、主人公の真島マコトが本気で怒りに震え(正義の怒り。江戸で言えば、遠山の金さん的な怒り)たりするのですが、そのような暴力の連鎖は、作品の中の展開とは言え、作品の中で落とし前をつけなければならない。なぜかというと、作品中で落とし前をつけないかぎり、ある種の伝染性が残り、視聴者によくない影響を与える可能性があるから。(これはたぶん作劇術の基本中の基本だと思います)

よって、殺人、援助交際、リンチ、盗聴、引きこもり、学習障害、不法滞在、チーマー同士の抗争、スピード、性同一障害、多重人格、マルチ商法などが散りばめられて、様々な暴力が連鎖してストーリーが進んでくるなかで、最終回においては、誰かが死んで、犠牲になって、その血でもって、暴力の連鎖を終わらせなければならない。

このテーマは、言うまでもなく、ギリシャ悲劇が真正面から扱ってきたテーマであるわけです。
それを。この宮藤官九郎という脚本家は、真正面からぶつかって、きちんとやった。それがものすごいことだと思うのです。

もう観る人は観てしまった後だと思うので、ネタばれの懸念もないでしょうから書きますが、長瀬智也演じる主人公真島マコトが、最終回において、チーマーのG BoysとBlack Angelsの抗争の間に割って入り、無抵抗のまま窪塚洋介演じるキングから殴られ、殴られ、顔が腫れ、地べたに押し付けられ、血がじょぼじょぼとなって、それでも無抵抗を続けて、殴られて血を出して、ほとんど死んだも同然になったシーンは、個人的には最近観たばかりの映画「パッション」の超リアルなキリストの受難とかぶってしまいましたが、そうした西洋の古典的な供犠の設定も踏まえて、描いたこの場面は、たぶん日本におけるギリシャ悲劇受容史的な見方で見ても、最高のものになっていたのではないかと思います。われわれをしーんと黙らせる力がありました。

ドラマですから、ギャグ主体で作っていますから、長瀬智也演じる主人公真島マコトは死にはしませんでしたが、あのほとんど死んだも同然になったシーンがあることによって、本ドラマで描かれてきた「暴力の連鎖」は止まったのです。すなわち、本ドラマを見続けてきた、暴力に走りがちな世代の視聴者にとって、暴力の本質がこっぱみじんに破壊され、そうした衝動が浄化されたのです。演劇の力でしょう。

今頃言うのもなんですが、やっぱり、宮藤官九郎は天才だと思います。

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