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NOKIAが日本の事業者向け端末供給を打ち切る&VERTU事業は継続というニュースが出たのは11月27日。外資出身の私としては、後ろ側でいろんなことが起きているんだろうなと小さな胸を痛めたりもしていますが、今回のお題はVERTU。例の超高級携帯と呼ばれているモノ。これに関する記事やら何やらが一杯出てますが、実は私自身、その大半の論調に対して微妙な違和感があったりします。
間違い無いのは、持つのにお金がかかるということ
ここは重要なポイントです。でも逆に言うと、これを高いとか何とか言う人は少なくともVERTUの想定顧客ではないと言うこと。つまり、そのお金をひょいと出せる人だけを相手にする商売です。関係ない人がそれについて四の五の言っても屁の河童。
少なくとも私は顧客になる素養はありません。
間違いないのは、別に日本で売る気がそれほどないということ
別に日本で売れなくてもいいんです。もちろんそれなりに売れてくれればOKですが(というか、販売代理店は売れないと困るわけですが)、そもそも日本にこの電話機を持てる顧客なんてのは全人口の何%か知りませんが、いわゆる富裕層として存在してて、でもそんな人は別に何十万人もいるわけではない。それこそ以前オルタナでも話題になった、クレジットカードのプラチナやらブラックやらを普通に持ってる人たちの、更に一部の人です。そんな人がそれなりに集まればOK。別に無理する必要も無いし、そもそも機種変更のプランがどうのこうのとか、新製品の新しい機能がどうのこうのというのをVERTUに求めるわけが無い。だってですよ、パテックとか何百万円から何千万もする腕時計に新機能がついて喜ぶ人っています?多分ごく少数でしょうね。そういう層が、たとえば日本に1000人いたとして、その人たちに持ってもらえればそれでOKという性格のものだと思います。
少なくとも私はそんな層ではありません。
間違いないのは、むしろ世界中を動き回っている顧客に日本でもサービスを提供できることのほうが大事だと思われること
既にヨーロッパや中東にはVERTUのユーザーは一杯いるわけです。彼らが日本に来たときに、それ以外の国で受けているサービスを受けられないことのほうが、VERTUの電話機を日本で売ることよりもよほどインパクトが大きいはずです。VERTUの本質は、電話機自身ではなく、VERTUというサービスが提供するもの、たとえば自国語によるコンシェルジェのサービスはまさにその本質のひとつなんだと思います。この戦略は、ある意味クレジットカード会社のプレミアムカードのサービスと同じ。そんな人が、別にメールが使いにくいとか動画が見れないとかそんなのをVERTUの端末に要求するわけが無い。そんな目的ではモタナイわけです。そんな機能が欲しければ、別にGSMなりW-CDMAなり何なりの電話を別に持てば良いわけで、それを躊躇するような層でもない。機能じゃない。サービス。カードの切り替えみたいに乗り換えたり、単純に飽きたから次のに変えるくらいはあるかもしれませんが、それ以外に機種変更する理由も必要も無い。極端な話、電話ができれば良い。それだけ。
少なくとも私はそれだけでは困りますが。
間違いないのは、今の世界の経済情勢にそれなりに影響を受けるということ
たとえばある国産メーカーの手作り超高級車。日本で見ることは殆どありませんが、中東の一定の地域では飛ぶように売れているそうです。イタリアの超高級スポーツカー、ドイツの超大型リムジン。みんなそうです。もちろん欧州でも米国でも一定の数は出るわけです。これらの一定数はストックをベースとした富裕層なので大きな景気変動にも影響は少ないようなのですが、大半は何らかの経済活動の中でのフローをベースとした富裕層なので当然大きな波を被るわけです。VERTUの顧客は基本的にその層と被るわけですから、現在の世界の経済情勢がなんらかの影響を与えるのだろうなという気はします。他人事ですし、余計なお世話だと言われるとそれまでですが、ちょっと興味はあります。マーケティングモデルとしての市場の捉え方やアプローチの方法として、普段接している市場とは余りに違いますから。
いや、勉強になります。
とはいえ、少なくとも私にとってはVERTUの行く末は他人事ですけど。
間違いないのは、本質的なパーソナルサービスを提供するのが事業の根幹だと思えること
ただ、いずれにせよVERTUのビジネスを端末あるいは単純なMVNOだと思うと間違いじゃないかと言うことです。端末自身はあくまで富裕層向けのパーソナル・サービスのためのデバイス。本質はサービス自身。他の通信事業者や純粋なNOKIAブランドとしてのNOKIAも含めた端末メーカーの戦略と横並びで考えること自体が間違っていると思っていますが、これって間違ってるかな?
CNETさんに 2008/12/04 07:30 付けで掲載されている「オンライン匿名性の終焉--単一IDが与える影響を考える」という記事についての、とりとめのない話。でも深い話。
昔から誰が誰を認証し、その結果ナニが起きるのか。これについてのひとつの考え方と見方。
誰がナニを担保に個人を特定するのか
個々の例は挙げませんが、ネットワークの世界だけではなく一般的に匿名性が担保されるからこそ実現できるモノというのは多く存在します。また、色々な理由から匿名性を確保したいケースもあります。理由はどうであれ、個人を特定されたくないという性質のものがあります。
逆に匿名性があるから起きる問題というのも当然あるわけで、たとえばオルタナティブブログの中でもその件に関するエントリーがいくつもあります。
ただ、一番の問題は匿名性が失われる=誰かが個人の認証を行うということです。いや、別にそれを公的にやれとか何だというのではないのですが、なんだかイヤだなという気持ちです。
オルタナのブロガー間でも時々話題になる実名顔出しブログってどうよ?っていう話
これはオルタナのブロガーだけではない話ですが、おそらく全員が理解しているのは自分の意思で顔を出し、名前を出して何かしらモノを伝えるというところにあるリスク。これはプロのジャーナリストや物書きとは異なるレベルだと思っています。
もちろん、それでも、そのリスクを受容してでも何かを伝えたいという意識が強いのでそうしているわけです。この部分についてはおそらくある程度みんな共通だと思うのですが、当然受容できるリスクは自己責任ですので、当然ものの言い方も書き方もそれを意識すると思います。少なくとも私はそうです。
具体的には、オルタナで書いている自分、展示会で説明員としてお客様とお話をしている自分、何かしらの商談で直接お客様やパートナーの方とお話しをしている自分、セミナーなどでプレゼンテーションしている自分、知人や友人と話をしている自分、そして家族と話をしている自分・・・ それぞれの立場で受容できるリスクは全部違います。
でも、それらは全て明確に個人に帰属するリスクで、当然個人がある程度特定されることが前提です。だって、私個人が人と話をしているのですから。
でも、やっぱり匿名性が担保されないと成立しない部分ってのもあるよね、っていうかあって欲しいというのも本音
やはりネットワーク上では匿名性を確保してこそ関与できるモノというのはあると思います。良いことか悪いことか判りませんが、匿名性が担保されることにより成立する世界というのは、絶対にあると思います。最悪、誰かが知っていてもそれが一般に判らないようになっていればOKだと思える部分がありますけど、なんだか全部を紐付けされてしまうのは恐いと思います。既にネットワーク上にある情報から個人と他人との関連性をつけて表示してしまうサービスなんてのもいくつもありますが、とりあえずたとえば同姓同名でも特定の個人を確定はできないので、結構楽しい結果が出てきたりします。でも、一人の個人を特定できるようになると、ちょっとコワい。
結論も何も無いのですけど
個人を誰が何を元に個人を認証するのか。成りすましというのは倫理的に良くないのはわかります。学校裏サイトにもあるように安全上の問題など全部ひっくるめてとても大きな問題ですが、それこそ全世界全員総背番号制みたいな壮大な話になると収集がつかないわけで・・・
すいません。まとまりの無い話で。
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