THE SHOW MUST GO ON
マーケティングの考え方、インテグレーテッド・マーケティング・コミュニケーション屋のモノの見方
世の中、広くいわゆるハウツー物情報が溢れている中、たとえば自己啓発本とか自己啓発セミナーとかが、まぁ山のようにあるわけです。それぞれについて、いわゆる入門のための情報収集源としての利用ってのはあるとは思います。例えば料理関係に限定すると、間違いなくワタシはその手合いです。
でもね。読んでるだけじゃ駄目なんですよね。やっぱり。
ワタシは特殊なのかもしれませんが、自分の仕事上の役割の一つであるプレゼンテーションという役回りについてのハウツー本とか読んだ事ありません
これは、まぁ特殊なのかもしれません。ある意味自分が育った関西の血がそうさせるのかもしれませんが、まずは自分の話を聞いてもらうという大きな入り口がソコにあるのを極初期から体が知っていたからかもしれません。それが仲間内の話の中で強烈に出すぎてしまうと「こいつ鬱陶しい」と嫌がられたりするわけで、確かにその頃合がよく判らなかったある時期には親しい友人から随分ととっちめられた事もありました。
で、ここで学んだ。自分の出し方、話を聞いてもらう方法、そして自分の考えている事を理解してもらうというコトの重要性。
学生の頃の話ですから、もう随分と前の話です。でも、その頃、そういう風に諭してくれた友人にはいまだに感謝しています。だって、それがなければ今のワタシは無かったんですから。
これは、正に自分の経験。脛に負った傷。
基本的な人とのコミュニケーションに元々それほど抵抗が無かったというのは幸せな事だとは思います。が・・・
そんだこんだで、今でも人と話をする事、人に何かを伝える事、人に何かを理解してもらう事というのがワタシの仕事の・・・ そして行動原理の根幹だったりするわけですが、そのやり方というのは色んな方に散々怒られながら培ってきたもの。あくまでも自分の体験から生まれた方法論だったりするわけです。で、それがどうやら世間一般から「お前は変だからどっかに行ってろ」と排除されるような酷いレベルではないので、今でもこのようなことをしていられるのだと思っています。
ただ、あくまでもこれは誰かがあっての話なので、方法論として確定したものでもないし、誰かから全部教えてもらったものでもない。もちろんヒントや助言は散々いただきましたし、今でも同様ではあるんですけどね。
そんなワタシが解らないのが、いわゆるコミュニケーションに関するハウツー本やハウツー講座などの興隆
いや、わからないんです。そんなの読む前に人と話しをしようよと思うのですが、例えば書店に行くと山のようにある。もちろん何かしらのときのヒントになる物はあると思うんです。それは間違いないと思うんです。でも、正直な話・・・
「本を読んでも人とのコミュニケーションは上手くなったりしないよ」
と思うんです。あ、凄く卑近な例を挙げると・・・
「人との付き合い方のハウツーを幾ら学んでも、だからと言ってその対象となる人と付き合う事ができるわけではないでしょ」
と言う話。すいません。言いすぎかもしれません。でも、思うんです。下手に知識ばっかり頭に詰め込む前に、生傷が絶えなくてもまずは人と話をしようよ、そしてそれが上手く行ったら行ったで、行かないなら行かないでその理由をチャンと自分なりに消化して理解して、また次にやろうよ、という風に、少なくともワタシは思うんです。
もちろん、コレを誰かに押し付けるわけでもなく、講釈を垂れるべきものでもないとも思っています。でも、とりあえず話を「コミュニケーション」というものを学問として取り上げる前に、まず自分でやったらどうだったという話を参考にするべきだし、更には自分だったらどうだったという経験が大事だと思うんですね。
というコトを思っているところでふと目に留まったのが、「コミュニケーション 技能は『国語』よりも『体育』に近い。」というp_shirokumaさんのブログのエントリー
この議論、いや、本当にそう思います。ハウツー話やノウハウ話ってのは何かの途中で参考にするのはいいとして、それを完全に習得したからできる?っていう種類のものではないというのは私自身経験的に知ってるわけですが、でも、やっぱりそうだよね、というお話。
もちろん、知識として知っているのは悪いことではない。でも、でも・・・ でもね・・ というところがずっと引っかかってるんです。
あ、ならば、「俺はこう思うぜ コミュニケーション能力劇的向上のノウハウ」みたいな本を書いちゃおうかな?売れるかな?(笑
日曜の朝のお楽しみのプリキュアシリーズが昨日から新しい「ハートキャッチプリキュア!」に変わりました。以前、フ レッシュプリキュア!のエンディングのCGが凄い件とフ レッシュプリキュア!のエンディングのCGが更に凄くなった件という二つのエントリーで取り上げたワタシ的には、やっぱり外せません。ということで、早速オンエアーをチェック。で、結論から言うと・・・
う~ん。やっぱり凄いぞモーションキャプチャリング
やっぱり思うんです。この動きの再現は凄いって
以前のエントリーでも書きましたが、高々(失礼な)小さな女の子向けのアニメのエンディングですよ。本編は別に普通のアニメです。まぁ動きもそれなり。でもね、前作のフレッシュプリキュア!からエンディングに対する、なんというか、その、作り手の気合が伝わるんですよ。何を熱くなってるんだよという声がそこらじゅうから聞こえてきますが、でも、このモーションキャプチャリングをベースにしたCGを使うってのがですね・・・
だめです。熱すぎです(笑
絵のテイストから言うと、フレッシュプリキュア!の方が好きなんですけれど、ってのは置いといて・・・
これは、まぁワタシが四の五の言う話ではありませんからどうでも良いのですが、動きのトレースの仕方はやっぱり手書きのアニメとは全く違う世界だよね?ってのは、たとえばゲームだったり映画だったりで普通に使われているところを知ってる人から言わせると「あたりまえじゃん」ってのは解るんですが、コレを見るととりあえず「よし、この踊りをコピーするぜ」という気になるんですよ(そんなことしなくて良いって)。だって動きは人の動きそのものなんだし(だからぁ!)。
だめです。やっぱり熱すぎです(笑
因みに言い訳をチャンとしとくと、やっぱり今回のシリーズも娘と一緒に見てます
流石に40代半ば過ぎのオヤジが自分ひとりでニヤニヤしながらプリキュアのシリーズを見てるってのは怪しすぎて、実際のところは小学校1年生の娘と一緒に見てます。ただ、この手のアニメってのは年代によって当然熱心な時期と、それを卒業する時期ってのがあって、ウチの娘の場合はそろそろ微妙に卒業しかかっている状況ではあります。
元はと言うと放送の時間に問題があって、上の息子と一緒にボーイスカウト活動をやっている関係で日曜日っていうのは割と朝からバタバタする事が多く、ビデオにとって週のうちの適当な時間に見る事が多いんですね。その意味で「日曜の朝はプリキュア!だぁ」っていう意識が余り無いのですが、やっぱり年齢的なものってのはあるなぁと、その行動を見て居てもわかります。
グッズ関係については以前からそれほど執心していませんでしたが、最近はアニメのキャラクターが入ったノートやら何やらを欲しがる事が明らかに減ってきました。この辺りは、鉄人28号や鉄腕アトム、ジャングル大帝などを白黒時代にリアルで見て育った自分の動きに照らし合わせるとよく判ります。
ま、それはよく判ります。
ということで、ワタシ的には単にエンディングのCGで盛り上がっているだけ、というコトなのですが
まぁこういうエントリーを書いていることもあり、時々ふと思って会社のPCの壁紙をプリキュアシリーズのWebサイトにあるカレンダーに変えたりしてみましたが、流石に周囲から「それは怪しすぎるから止めてください」といわれて渋々(なのか?)別のに更に変えたりとかしてる程度。
まぁ普通のおじさんです(いや、決して普通には見えない)
・・・ってのはさておき、何れにせよ、たかが(相変わらず失礼な・・)子供向けのアニメのエンディングの、このモーションキャプチャリングの面白さ。でも、こういう動きのアニメに物心付いたときから触れているというのは、ひょっとしたらデバイスレベルでのデジタルネイティブと違う次元でのデジタルネイティブを生み出すんじゃないかと、ちょっとだけ思ったりしています。
何しろ元々ワタシなどは人が物理的に動く映画やドラマなどを見ながら、それとは全く異なる「動く漫画」としてのアニメを見て育ってきたわけです。でも、いま目の前にあるのはアニメのテクスチャーをまとった人の動きが作品になっている。背景やら何やらをビデオの世界でリアルに合成するなんてのは普通なのですが、そこに出てくる登場人物すら既にリアルな人間ではない。
この部分、これをいわゆるバーチャルリアリティの枠組みで考えるのとは全然違うインパクトが有るような気がするんです。で、その洗礼を受けて育ってゆく、たとえば私の2人の小学生の子供たちが大きくなったとき、何かを表現する場になったときに、モノゴトをどういう風に理解し、どう表現するんだろうか?とか。
エントリーを書きながら、ちょっと冷静にいろんな事を考えられるようになってきたようです。でもね、あのエンディングって、やっぱり凄いと思うんですよ・・・(しつこい!)
例のGoogleと中国当局との問題ですが、ココに来てちょっと展開が変わってきました。元々国務省あたりもコメントを出すなど動きはあったわけですが、遂にNSA(国家安全保障局)が関与してきたという報道です。
元記事はThe Washington Postのこの記事
一部日本の報道機関でも伝えられましたが、GoogleがNSAと共同して対処にあたる、という内容です。たとえばITmediaでは下のこの記事。
国務省がコメントを出す時点である意味外交問題化しているとも言えるのですが、合衆国連邦政府の中の調査機関であるNSAが動くという報道が出ること自体、かなり特殊な状況と言えるかもしれません。
もちろん元々NSAが何も動いていないと考えるほうがおかしいのですが、本来その活動が余り報道されたりする事が無い機関の、しかも(とりあえずは)一私企業であるGoogleと中国当局との話に直接関与、という状況は余り例が無いかもしれません。
事の真偽も含めて、さてさて、一体どうなることやら・・・
iPadが発表され、色んなWebサイトやブログ、そしてTwitterのTLにも頻繁にその話題が出てきます。NTTドコモの山田社長自らSIMフリーだし扱うかもという話をするくらいの勢いで、多分それなりの数が出るんだろうな、と思ってはいるんですが、たとえばそれをワタシが買うかな?と考えると、なんだか頭に「?」が浮かびます。
例によってこの手の新しいもの、特に通信サービスをインフラとして利用するものについてはシニカルな立場をとりがちなワタシの事ですから別に珍しくもなんとも無いのですが、どうなんだろう?って色々と考えてしまいます。
いや、あくまでもワタシの個人的な印象なんですけど、でも、ふむ~
タブレット、ですよね?
iPhoneあたりまでは手に握りこんで使うから理解できます。ただ、たとえばKindleが出たときの印象、あるいは実際にKindleを使っている人を見たときの印象(Amazon のKindleを使ってる人を初めて見た)っていうのは「やっぱりなぁ」というトコロ。
いや、中途半端にデカイんですよ。
もちろん大きさの意味は理解しています。因みに長いPersonal Computerと呼ばれるもの(いわゆるPCだけではなく)の歴史の中で、タブレット型と呼ばれるハードウェアは数限りなく存在してきましたし、iPadは正にその形だし、今後も多分限りなく出てくると思うんです。で、それぞれはそれぞれの思想と目的に応じて必要な大きさと形状になると思うんです。
でもね、それって大抵業務用途なんです。たとえば手に持っても片手で操作するのは不可能で、たとえばアンケートボードのようなものを電子化したもの、のような想定で作られるケースってのが結構あったりするわけです。片手で持って、もう片手の指なりスタイラスなりで操作する。在庫管理みたいなものだったり、病院での院内情報システムの端末だったりといった何らかの業務アプリケーションみたいなものがソコで動いているんですが、基本としてとにかく両手をふさぐというのが形状の前提なんですね。
で、もう一つ。
置いたとき、画面は置いた場所と並行になる。
PCの場合、机の面とキーボードは並行になり、画面は見やすいように目の前に立ち上がった状態になるのが基本です。紙に鉛筆で文字を書くときには机の面と並行になるんですけど、キーボードを叩きながら机と同じ面を覗き込むのは結構辛いものです。
ということはやっぱり手に持って使うのが基本なんだよな。
でも、iPadを手に持って、何するんだろ?
手に持つと嫌な感じのタブレットって意外とあります
iPadはまだ手に持った事がありません。Kindleも同様に自分で持った事はありません。ただ、PCベースのものや、いわゆる電子ブック系のモノ、もう少し小さくなるといまや殆ど絶滅した純粋なPDA系のモノまで、手に持って全ての操作を基本的に画面の中で行う機器ってのは結構触った経験があります。
で、ココからはワタシの主観的な印象になりますが、実はハードウェアのデザインとして大きく二つに分かれるんじゃないかと思っています。
- 手に持つことを前提に複雑な形状も厭わずデザインされたもの
- サイズの規定をしたあと、美しさを基本にデザインされたもの
すいません。凄く主観的な話ですが、ワタシとしては何だかその二つに分類されるような気がしています。もちろん持つ人の利き腕の問題や手の大きさ、そして体力などに左右される問題ですが、でも持ってしっくり来るものと、なんだか持っていて気持ちがよくないものっていうのの二つがあるんですね。
これがケータイなどだと、それこそモックアップを手に持って開いたり閉じたりボタンを触ってみたりして自分的に悪くないかどうかをチェックするのと同じような話なのですが、握りこむ事ができないタブレットの場合、支える自分の腕との関係でなんだか上手くないなぁと思うものが結構あったりします。
それと確信犯で無茶を言うと、これがフィルム状で、たたんだり丸めたりできるなら多分飛びつくでしょうね。でも、固い。あくまでも固い。イベント会場などでアンケートボードを30分持ってるだけで腕が嫌なカンジで疲れてくるのを知ってる私は、この固い板をずっと持ってるのは辛い。両手が無いと操作できないけれど、片手で支えるってどうかなぁと思うほど大きなものを持ち続けて使う自分が想像できない。
あ、あくまでもワタシの主観ですよ。とはいえ、うむ~
とはいえ、いつもの事ながら、四の五の言いながら触ると「あ、これいいじゃん」とか言って買ったりするかもしれませんが
今のところ自分の手で触っていないので、これらの、いわば先入観がそのまま適用できるかどうかはわかりません。あまり懐疑的なことを言うと、色んな人から「だからお前は何も判っとらんのだ、このドアホが!」とお叱りを受けそうですが、でも、素直に層思うんですね。
これを持って何かをする自分が想像できない。今のところ自分を含めて誰かの何かをこれが解決してくれるとも思えない。とりあえずあの裏側のつるんとした引っかかりの無いパネルを手を広げて支えながら、自分は何ができるのかな?誰が何をするのかな?両手で両サイドを持ったり膝の上に載せたりして電子化されたドキュメントを読むのは目にキツイしなぁとかも思ったり。そもそも、そんなのを読みながらうたた寝をしてしまい、気が付くと落としたり枕にしてしまったりして綺麗な幾何学模様の入った画面と御対面するのは御免だし、混んだ電車の中でコレを使われるのは両肘を広げて携帯ゲーム機に集中してる人よりも罪が深いぞとか思ったり ・・・などなど。
とりあえず色んな記事やら何やらを眺めながら、アホな思案に暮れる今日この頃です。
元はTechCrunchの記事。Twitterマーケティングを考えているある種類の人にとっては衝撃かもしれませんが、これはある意味古典資本主義経済の原則に則った動きとも言えるかもしれません。需要と供給のバランス。需要があるから供給があるわけで、両者の思惑が合致したところで価格が決まり、取引が成立する。それが経済活動の根本の一つ、とも言える部分です。
eBayでは、Twitterフォ ロワーの値段が1人1セント以下
記事がそのまま事実ではないかもしれません。いわゆる名簿業者と同じ感覚でTwitterのFollowerを買えるというコト。確かにTwitterを使っていると、例えばつぶやきは一つだけ、Followされているのも一人だけでありながら数千人をFollowしているユーザーってのがたまに来ます。現在は一日のFollower数制限などがあり、一時期に較べると息を潜めた感がありますが、それでも意味不明のユーザーからのFollowが時々あるのは事実。
で、実際のところはどうなの?とe-Bayで検索してみると・・・
確かに売りに出てる
試しにe-Bayの検索窓に「Twitter Followers」と入れてみた結果です。
おお・・・
単なる噂ではないようです。
ワタシは、自身の無知も手伝っていわゆるCGMには懐疑的な立場を取るB2Bマーケティングな人なのですが
これはどんな形態のマーケティングであっても、まずある意味疑ってかかる必要がある部分じゃないかと思います。そもそも属性を確定できない、氏素性を確定できないデータを信じてはいけないというのはマーケティングの鉄則ですが、噂レベルも含めて懐疑的な部分があると思われるときには裏をキチンと取る事。これはやっぱり外せない行為と言えるんじゃないかとは思います。
もちろん、ここで流通しているものがそのまま直ぐに何かの役にたつような状況でもないんじゃないかと好意的に考えていますが、何かの活動の裏側でそれが利用され、実態とかけ離れた反応をネットの世界で示しているというような評価が出てしまうともう訳が解らない。
元々「個」が見えるのが前提のB2Bの人であるワタシにとって対象を「マス」で捕らえるB2Cの世界というのは未知の世界なのですが、B2Bの世界であってもいわゆるデマンドジェネレーションの段階では非常に広い世界に網を投げる事もあるわけで・・・
難しいものです。
先々週の末にこれはもう老眼鏡を買わないとどうしようもないぞというエントリーを書きながら、諸般の事情により延び延びになっていた懸案の老眼鏡・・・いや、シニアグラス。遂に買いました。別に何万円もするものでは無いわけで、別に肩肘張って云々という話ではないのですが、まぁ、自分的に「歳とったなぁ」と素直に思うですね、流石に。
意外と眼鏡屋さんに手ごろなのが無いという現実
眼鏡屋さんに行くと、いわゆる遠近両用系はいかがですかというチラシやらポスターが一杯あります。昔ながらの境目のあるモノから、全く境目の無いものまで。普通の眼鏡のフレームに入るわけで、この場合にはある意味精神的な障壁は少ないんだろうなと思います。
ただ、ワタシの場合には左右の視力の差がありすぎて、眼鏡では0.7くらいまでしか矯正できず、自宅用の近距離専用しかありません。たまに朝起きたら目が腫上がったりしていてやむなく眼鏡で出勤することがありますが、距離感や遠くの視力の問題で非常に苦労します。
因みにビビリなのでレーシックには踏み込めません。駄目です。ビビリです。
ということで、普段はコンタクトレンズ。ココに難しさがあるんです。欲しいのは単なる老眼鏡・・・ いやシニアグラス。あ、個人的に、ですけど。
意外に種類がある文房具屋さん系&本屋さん系という事実
最終的に良さげなのを見つけたのは最近出来た大きな書店の一角にあった文房具のコーナー。カタログ好きなワタシの事、大体の目星はつけてあったのですが、別件で出かけた先で発見し、遂に購入に至りました。
現状のワタシの視力の状態において、この威力たるや絶大なのは前のエントリーのように既に身にしみているわけですが、いや、正直、驚きです。
もちろん、その気になれば100円ショップ系にもあるわけで、モノに拘らなければどうにでもなるわけです。それ以外にも、たとえば郵便局とかの窓口とかで、横に「御自由にお使いください」と幾つか置いてあるところもあります。多分これからはこういうのにも頼るんだろうなぁと思いつつ、ようやく手に入れた老眼鏡・・・ いや、シニアグラス。
で、会社にも持ってきました。今も、机の上に置いてあります。
でも、まだビビってます。使えません。なんだか抵抗がある。どうしよう・・・
アホですね。我ながら。
永井さんの思い出 すだけで辛くなる、最悪のプレゼン、そして大里さんの英語のプ レゼンの準備は周到に、でも度胸も大事に触発されて。断続的ではあっても都合20年以上もプレゼンが仕事の軸な私、このネタには反応せざるを得ません。Native Speakerではないという立場にとって、英語のプレゼンというのは大きな負荷なのは事実。私自身はそれを何度もやる立場にありました&ありますが、それなりに脛に負った傷跡が時々痛みます。
そのなか、ふと思い出したのは、生まれてはじめての英語でのプレゼンとデモをやったときの事。
最初の英語のプレゼンは高々15分間のデモとその説明
思い起こせば1988年。当時勤務していた日本アイ・ビー・エムの通信サービス専門のデモセンターでやったデモンストレーション。相手は記憶が正しければ1ダースほどのアメリカ人、そしてたった3人の日本人という集団でした。そして、アメリカ人の集団は当時の日本アイ・ビー・エムの上部組織であったAsia Pacific Group (APG) のPresident以下の、上から数えて12人くらいが勢ぞろい。方や日本人と言うと、当時の社長の椎名さん、後の社長の北城さん、そして当時の専務の方が一人という構成だったと思います。
たまたま色んな理由があってそれらの人が参加する会議が所属していたデモセンターの一室で開催されたのですが、そこで私が通常担当していたVANサービス(既に死語です(笑))のデモをせよとのお達し。当然英語です。最悪な事に当然ですが画面は全て日本語です。まだPowerPointなんて便利なものはありませんから、資料はOHP(これも既に見なくなりましたね)。
「あのさ、今度あの部屋でAPGのミーティングあるんだけど、そこで30分位でデモできるよね?」
「はぁ。まぁ出来ますけど、APGの・・・ってことは英語ですか?」
「当たり前でしょ~」
さぁ大変です。その話を聞いてから本番まで確か3週間ほど。普段30分ほど掛けてデモをやっていたのですが、そこで喋ってる内容をまず全部ワープロ(DOS文書プログラムです(笑))に打ち込み、それを自分なりに英訳し、英語としての言い回しを一生懸命覚えようと頑張って、頑張って・・・ 元々学校の英語の授業で先生にあてられて教科書を読むくらいのことしか人前で英語で喋ったことが無い私のことです。
「日本語で出来るでしょ?それをそのまま英語でやればいいんだよ」
そんな先輩や上司の温かい言葉の温かさは何も私には伝わってきません。そうこうしているうちに本番の日が来てしまいました。会議の内容については全く関与する立場にありませんが、APGの秘書の方から逐一部屋の中の進行状況についての連絡が入ります。なんだか時間が延びているらしい。そして、最悪の一言が来ました。
「遅れてるんで、30分って言ってたけど15分でできるよね?」
が~ん。俺が考えたストーリはどうするんだよ~と一瞬だけ考えました。でもどうしようもありません。さぁどうする?と、ここで頭の中は関西人に切り替わります。
「どうせ見せるものはいつもの新聞記事情報とか株価情報とかの3つのサービス。ならば5分でざっと説明しよう。どうせなら・・・そこでウチの会社のネタを探して・・・幸いな事に会社にとって微妙なニュースが出てきてるし、ならばそれで、トップに向かって「まずいですねぇ。どうします?」とか聞いちゃって笑いを取っちゃえば、プレゼンの場としての目的(紹介すること)に加えて和めるぜ」
若いということはすばらしいものです。
その部屋に入れたのは私、そしてPCの操作をやってもらった1年上の先輩の女性の2人だけ
「じゃ、お願いします~」
部屋の外でずっとスタンバイしてましたが、遂にドアが開きました。さ、行くぞと部屋に入ると、もうそこは事実上アメリカです。もうココまで来ると引き返す事は出来ません。後ろで不安そうに部屋を覗いている上司や先輩諸氏の顔が、バタンとしまったドアの向こうに消えます。
「えっとですね、このデモセンターのスタッフの岩永です。じゃ、時間が無いんでとっととやりますね」と英語で適当に切り出して、そのままプレゼン&デモに突入です。
で、
結果的に15分で3回ほど笑いを取れました。一つ目は軽く「ふんふん」。二つ目はもう少し「ニヤニヤ」系で、そして最後は爆笑と拍手で終わりました。自分的には大成功。説明自体は時間枠が変わったので直前で構成を全く変えたこともあり、しどろもどろであったのは事実。でもパッツンパッツンに緊張しているので、背中にベットリと大汗をかいていたのに気が付いたのは終わって部屋を出てから随分たってからでした。
因みに部屋の外で(実は20人くらいいたのですが)待っていた日本側のほかのスタッフは、部屋の中から笑いが聞こえるのが不安で仕方が無い。何が起きてるんだろう?でも楽しそうに笑ってる声だよね。岩永のアホは一体何をやってるんだ?
まぁそれでも爆笑と拍手で終わって「ありがと~」とか声をかけてもらいながら会釈して部屋を出て、後ろ手にドアを一旦閉めて、で、その場でへたり込んでしまいました。完全に脱力。
「何したんだよ?」
「笑いを取れました~」
意味不明の返事ですが、上手く行った状況はその後一緒に出てきたPC操作をやってくれた先輩が説明してくれて、とりあえず一件落着。
因みに、もちろん毎回上手く行くわけではないのですが
これは実は日本語のプレゼンテーションでも同じ事。逆に言うと、少なくとも日本語のネイティブスピーカーである以上、まず慣れ親しんだ日本語でキチンと説明できるくらい内容を理解していないと絶対に駄目ですね。あくまでも私の個人的な思い込みですが、これは確信しています。
で、日本語で喋る事ができる内容であれば、ある程度の量の単語と言い回しだけ考えれば絶対に英語でも喋る事って出来るはずだと、更に思い込んで居たりします。実際に普段から理解している資料を急遽英訳して喋った事は何度もありますし、状況によっては日本語の資料のまましゃべりだけ英語なんて辛い状況も経験してます。この場合には結構逐一画面に書いてある文字を説明しなきゃいけないとか大変な目には遭いましたが。
そもそも日本語で生まれ育ったんだからぁって言い訳する必要は無いという事実
その人が英語をNativeに使える人かどうかなんて、聞いてるほうは多分10秒で判っちゃいます。だからそこはもう気にする必要は無い。「ワタシ英語が下手なんですけど」なんて言い訳も必要ない。途中で言い回しとかがわかんなくなったら日本語で「えっと、なんだっけ?」とか思わず口から出ちゃっても気にしない。
だって、相手はワタシの英語を聞きに来てるんじゃなくて、中身を知りたいからそこに居るわけです。伝えるべき事が理解できていれば、何とかなる、何とかしてきた、何とかなるもんだ・・・と思い込んで場に望む。
と突っ張ってみても「お前、何を言ってんだかさっぱりわからんなぁ」と笑われて、「でも言いたいことはわかったよ」とオチが付けば、ま、いいかな?
諸々の社会状況の中から、流通業、特に食品を扱うところでの「プライベートブランド」の取り扱いが非常に多くなっているのは誰もが気づく事。実際のところ、プライベートブランドといいつつメーカーが存在するわけで、それを統一されたパッケージに包まれ、大抵の場合には元のブランドよりも安かったりするわけです。もちろんプライベートブランドとする過程で味やら何やらに特色を出すなどされる事もあるわけで、それはそれで理解できます。
衣料品については取り扱いブランドが統一されていないということで逆にセレクトショップといった業態もあるわけですから、ここはお話から除外。話は食料品に限定してみます。ただ、そうやって限定してみてもスタイルは千差万別。でも、特に大手どころに顕著に見られる、ような印象を私が持ってるのがプライベートブランドの幅の利かせ方。
でもね。そればっかりって、なんだかちょっと楽しくないんです。私にとって。
最初からプライベートブランドのみという業態もあるわけですが
食料品まで扱うところで最初からプライベートブランドだけってのは多分少数なんだと思います。正直、食料品関連、あるいは流通業という広い括りに対しても素人な私の場合の目線はあくまで一人の消費者という立場ですが、それでも幾つかは思いつきます。
かたや、いわゆるナショナルブランドからなにから、色んな商品を取り揃えて売っているというのが元々の基本的な姿だとは思います。少なくとも私はそう思い込んでます。
そんな中、色んな特色を謳いつつ、特定のお店、特定の業界などで特定のブランドをつけてラインナップしているプライベートブランド商品。それ自体は別に四の五の言う話ではなく、私も買うときには買いますし、同じような他のモノを買う事も有る。存在についてはありがたいとも思います。
でもね。お店に行って同じようなデザインのパッケージばかりが並ぶ光景って、なんだかちょっと楽しくないんです。私にとって。
パッケージから美味しさ感や楽しさ感を伝えて欲しいというワガママ
何度かエントリーにも書いたかもしれませんが、実は私、休日は結構料理をします。何か用事があったり外出してたりしなければ、基本的に三食普通に作ります。たまには気合を入れて何かやったりもしますが、普段は「男の料理!」なんて種類のものではなく、普通にカミさんとの家事の分担の中でのお話。
たとえば昼間に家族で出かけた後、家に戻る前に普通にスーパーとかに寄って「今日の晩御飯、どうしよっか?」とか「明日のはパンにするんだったらさぁ・・・」とか「今日は大根が安いなら・・・」とかワイワイやってるわけです。
で、野菜や魚などの素材関連はまぁ別として、何かしらパッケージを伴うものを物色するとき、やっぱり目が行くのは何かしら考えた末に作られて棚に並んでいるパッケージです。それが何かってのはもちろんわかりますが、そこにある写真やら踊っている文字に引かれてゆく事って間違いなく有ります。これはお菓子であろうが何かの素みたいなのとか、漬物でも餃子でも何でも間違いなくあります。
少なくとも私の場合。
でもね。それが統一されたパッケージでずらっと並んでるのを見ると、なんだか萎えちゃうんです。私は。
所詮個人的な感想なんですけど
中身云々の前に、買う時点での私にとって、やっぱり買う動機として美味しそうに見えるパッケージってのが欲しい、と素直に思うんです。これはスーパーでもコンビニでも同じ。最初から統一されている店というものであれば特に気にしません・・・ というか、実はそこに行くかどうかの時点で既に何か判断してるんでしょうけど。
もちろんブランド論として統一された見え方というのがとても重要だというのは理解しています。実際にそのブランドを名乗る以上、送り手側(つまり売る主体?)がそれなりにそれぞれの商品に本来のブランドには無い、あるいは別のナショナルブランドなどには無い特色を出そうときっと凄く努力しているんだろうな、というコトもなんとなく伝わります。
でもね・・・ いや、別に私がどうのこうの言う話ではないし、それが嫌なら別の店に行けばいいんですけどね。
もちろん人によります。でもとりあえず歳を取ってくるとどうしても体のあちこちがくたびれてくる訳です。一応定期健康診断では肝臓系で少し微妙な数値は出ますが、あとは至って健康体。自宅の体重計の「あなたの体年齢」表示は実年齢より10歳以上若い数字を出してくれます。
まぁそれはそれで喜ばしい事ですし、毎晩飲み歩いていると思われている私もそれなりに自分の体は労わっているんですが、こいつだけはどうしようもなくなってきました。
何が?
いや、近くが見えないんです。
はい。そうです。平たく言うと「老眼」です
もうコレは仕方ない。元々PCの画面を眺め続けている時間が長い事もあり、目を酷使しているのは重々承知です。その中でもそれなりに目を労わって色々と対策してたりしますが、近くが見えなくなるのは、もうある意味どうしようもない。
思い起こせば、数年前は満員電車の中で花の先5センチのケータイでメールを打てました。全然問題ありませんでした・・・ が、今はもう駄目です。文字を拡大しないとどうしようもない。スマートフォンの細かいメニューに至っては、もう記憶を頼りに操作する始末。
更に、何かの会議資料とかでA4やA3の紙が真っ黒になるくらい細かい表を見せられた日ににゃ、もうタダのクロっぽい紙としか認識できません (ちょっといいすぎ)。
見えなくなったものを上げればキリが無いのですが、ここ数日の話でいうと、たとえば腕時計の文字盤の日付もヤバイし、メーカー名とかもアウト。LANのHUBのシリアル番号なんて見えるわけ無いし、初めてお会いしたお客さまに連絡する必要があってメールを打とうとしても名刺のメールアドレスが読めない。
あ~
ええ、ええ。そうです。老眼ですよ。判ってますよ。
四の五の言わずに買いに行けばいいんですけどね
それこそ100円ショップ系でも売ってます。シニアグラスというコジャレた言い方があるのも知りました。そこそこのものだと2000円とか3000円くらいは普通にするんだってのも判りましたし、一度飲みに行きたいキモチを押さえたら楽勝で買えるのも理解してます。
ただ・・・
それを使っている自分をなんとなくまだ許容できない、妙に意地を張っている自分が居ます。でも苦労してるのは自分なんだし、細かい文字を見るときには「それ」を使えば楽になれるのも判ってる。お店で試したときの喜びなんて半端じゃありません。とにかく手元がはっきり見える。
じゃぁ買えよ
そうですね。特に昨年末アタリから急速に進行したような気もします。別に誰に対して抵抗する部類のものでもないですしね。別に何万円もするものを買うわけでもないんだし・・・ でも、俺が老眼鏡かぁ・・ でも、使わないと手元が見えないという事実が厳然とあるんだし・・・ でも、でも・・・
だめです。優柔不断を絵に描いたような、あと数年で50に手が届く悲しいオヤジです。
まぁこれはワタシが身をおく通信業界に限らず有るネタ。理論値と実効値の差。これをどこまで理解するかというのがモノゴトの本質を見極めるための一つの重要な尺度になったりするわけですが、それを世の中のみんなが理解するのは不可能な話。ということで、「それは話が違わなくない?」といわれるような事が起きるわけでして・・・
どこまで近似値になるか
たとえばプロセッサーの実行速度、たとえば通信サービスにおける速度、たとえば新しいソフトウェアの実行速度、たとえばクルマのエンジンの出力(コレは乱暴な例?)・・・ とりあえず何かしら働きかけるものには作る時点で必ず一定の設計値が存在するわけです。一般的なユーザーが何かしら意図を持って計測できる場合も無くはないとは思うのですが、普通はいわゆる「カタログスペック」として理解されていて、どちらかと言うと同じような別のものと比較するための相対的なモノサシとして見られる事が多いのではないかな?と個人的には思ったりします。
で、それがたとえば単体で機能するものであれば、そしてそれを計る環境が作った人と同じ状況を用意できるのであれば、その目標値、あるいは実現できた状況というのをかなり正確に理解できるのかもしれません。
でも、モノは同じでも計る環境、あるいは試す環境が違っていれば設計時点の状況や、想定された理想的な状況とはやっぱり結果が違う。でも、その人がその環境で他のものと比較する事ができれば、感覚的に「こういう値のものはコレくらいなんだ」という基準の元に別のものとの比較が出来る、事もあるわけで。
評価というのはその人の環境における相対的なもの、というのが個人レベルで持てる基準?
どこまで実際に使えるのか
たとえば有る値について一定の基準を満たしたものがあるとして、それがそれを利用する有る環境全体の中でどれほどの機能を果たすか、どれほどの能力を果たすのかについては、これまた千差万別だったりするわけです。
ある人のある環境において十分な機能と能力を発揮できても、別の環境の人の状況ではどうも良くないというコトはよくある話。たとえば単純な性能と言う意味での能力だけではなく、ひょっとしたらUIなど感覚的なところが多分に支配するものも含まれてくるのかもしれません。
更に、それを仕事上ではなく個人のものとして使うような場合には、単純な機能や性能比較をオーバーラップする「ブランドへの思い入れ」や「個人的な経験に基づく独自の評価軸」と呼べるものが関与してきたりするので、これまた一筋縄では行かない。
使える?使えない?
評価と言うのはその人の経験や思いも含めた相対的なもの、というのが個人レベルでは更に大きな支配力を持ってるような気もします。
どこまで理解すればよいのか
作る側のキモチ、思い入れ、思想などなど。これを送り出した何らかの製品やサービスについて作った人自身が伝えてゆくというのは大変な仕事。そもそも作る人というのは大抵作るプロであって伝えるプロではない。ということで、たとえばカタログであったりWebサイトであったり何らかの広告であったりプレゼンテーションであったりという手段を使って、それぞれ分業して人に伝えるという作業が入るわけです。
でも、本当のところをどこまで伝える事ができるか、どこまで伝わるかなど別の問題がそこに立ちはだかるわけです。一般的に、伝える側の方が聞く側よりも知識が豊富な事が多いんじゃないかとは思うのですが、逆に言うと伝える側が知ってる事を聞く側が前提条件として知らない、少なくとも背景を理解していないという前提が必要であったりするわけです。
理解度は前提条件によるという罠
もちろんそんな事は百も承知って話は当然あるわけですが、伝える側の意図した事が意図したとおりに伝わる事の方が珍しい訳で、美しい誤解から完全な事実誤認まで含めて色んな理解のされ方があったりするわけです。これは基本的にマーケティングコミュニケーションの世界で担保するべきリスクの一つとも思います。
ただ、伝えられる側から言うと「いきなりそんな難しい事言われても判んないよ」ってのももっともな話。しかもそれが感覚的に理解できそうな事であればともかく、技術的な知識が背景にないと理解に難しいようなものだと、これはハードルが高い。でも、ある程度理解しないと宝の持ち腐れになる。
そんなこんだで、評価と言うのは相手の理解度をある程度想定しつつ、誤解が生まれる事もリスクとして覚悟しないといけないののだけれど何とか良い方向に持ってゆかないといけないというとても難しいもの・・・? なんだかワタシ自身が混乱してきました。
そしてどこまで信じればよいのか
世の中の全てのものを自分で試して評価することは誰にとっても不可能です。したがってそれを専門家と呼ばれる人の評価やそれを伝えるメディアの情報に頼る事はどうしても必要になるわけです。
たとえば常に最高速度でクルマを運転(というか利用)することができる環境にある人は普通じゃ居ませんし、PCの処理能力、ソフトウェアの最大の能力限界まで常に使い続ける人もそれほど居るわけではない。朝から晩までP2Pやってる人ならともかく、常に通信回線の最高速度を必要としている人もそれほど居るわけではない。もちろんピーク性能としてその能力の限界近いところまで利用することが普通の人でもあるわけですが、それを意図しているのではなく結果的にある瞬間にそうなる事が多いのではないか?な?とか・・・思ったり。
そしてそれらの中から自分に直接関係するもの、自分が直接必要とするものについては自分で試して自分の直接の評価をする事ができるんじゃないかと。
う~ん。ワタシは何を言いたかったんだろう?
とりあえずなんらかのモノを計る尺度としての設計値や理論値と言うものがあって、それを実際に体感したときになるほど、とかほらね?とか感覚的に理解できるのかなぁ・・・
もちろん計測器を使ってキチンと計る等という開発段階での話じゃないです。最終的なユーザーから見た評価の話。
どうもプレゼンテーションを生業にしている中で、人にモノを伝える中での相対的な評価をどうやって形成するかってのが常に問題としてあるんですが、最近そのアタリを考え込む事が多くなってしまっていて・・・
なんだか妙なところでループにはまる今日この頃です。



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