「教える」の本当の意味とは?
さあて、9月になりました。平日では今日が初日ですね。米国なら新学期スタート、今日から二学期という学校も多いことでしょう。心なしか、涼しくなった気もしたり。
前職のときに、グループ会社が「ビジネスファシリテーション」という一日研修を受けていたので、どんな研修なのか報告を聞くのを楽しみにしていました。で、終わった後に参加した仲間に「ファシリテーションってなんだった?」と聞いたところ、「ああ、まあ結局会議の司会進行役みたいなもんだよね」という回答。唖然として、次の言葉が出てこなかったことを覚えています。
ビジネスパーソンの研修は、聞き手のスキルも問われるところなのですが、他数名も似たような反応だったということは、伝える側のスキルが低かったのかも知れません。ビジネスパーソンの研修とはいっても、初参加のメンバーだけで構成されているので、講師は「教える」必要があります。ビジネスファシリテーション以前に、ファシリテーションの存在、意味すら知らない人たちに「教える」には、どうすべきだったのでしょう。もっと遡ると、「教える」というのはどういうことなのでしょう。
先日書いたように、最近ドラゴン桜を読んだのですが、その中で龍山高校の教師たちが「教える」という意味について質問され、答えに窮する場面があります。普段教えるということに従事している人が、あるいは従事しているからこそ、それがルーティン化してしまい、意味を考えずに決められたことを右から左に伝えるだけになってしまう。特に最近は授業時間が少ないので、こなすだけで精一杯になってしまうのかも知れませんね。
我々ビジネスパーソンの世界では、アウトプットありきですから、伝えただけ、などということに意味はありません。むしろ、時間と費用の無駄遣い。だったら、他の仕事でもしておいてくれ、ということになりますよね。
もちろんこれは研修だけではありませんね。管理職が部下に教える、社内で教えることはさまざまな場面であると思います。その場面で、「教える」のか、「口にするだけ」なのか、で大きく変わってきますよね。もちろん聞き手も、「分かった振り」ほど無駄なことはありません。分からないなら、無意味なプライドを振りかざさずに、きちんと理解できるまで聞いてみる。
新入社員が増えつつある当社、自分自身も勘違いしないようにしないといけない、と感じる上期最終の一ヶ月初日です。