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人材育成の現場で見聞きしたあれやこれやを徒然なるままに。

父を見送って。

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父を見送った。

2020年11月5日(木)、88歳だった。

介護を気にかけてくださっていた読者もいらっしゃるのでちょっと長くなるが報告させていただきたい。

怒涛の介護に突入したのは、このブログでものすごい勢いを持って報告した2015年1月のことである。(番外編

そこから6年近く、父はそれなりに元気に生きていた。そして、老衰で亡くなった。

怒涛の介護から2020年11月5日までのことはいろいろあったので、別の場所で改めて書くとして、ここでは2020年のことを記しておく。

父は介護施設で暮らしていた。2014年年末から2015年年始にかけて、家族総出で怒涛の介護を乗り越えた。でも、やはり在宅介護が無理と判断。介護施設に入居することになった。

運よく実家から徒歩15分くらいの場所にとても素晴らしい介護施設が見つかった。
その介護施設にずっと暮らしていた父。母はしょっちゅう、妹と私も時々は見舞っていた。

2020年3月ごろ、コロナの関係で介護施設は「面会禁止」となった。オンライン面会(LINE)を提供してくださっていたが、言語不明瞭になっている父とオンラインで会話するのも難しかろうと試すことはなかった。

介護施設はとにかくコロナ対策でお忙しいだろうと、こちらからことさら連絡することもなく、春、夏と過ぎていく。

「便りがないのはよい知らせ」と思い、それぞれの母も妹も私もそれぞれの場所で、自分もまたコロナ対策しながら日々を送っていた。

都内の陽性率が3%を切ったからということで、9月半ばから10月半ばにかけて、約1ヶ月、介護施設での「直接の面談」が解禁となった。

とはいえ、
・15分のみ
・居室ではなく、ロビーで
・マスクとフェイスシールド着用
・1入居者に対して会えるのは2名まで
などの制約付きである。

9月末ごろ、実家に帰るついでに妹が面会しようと介護施設にTELしたら、「予約いっぱいです」と言われ、断念。

次に10月初旬、私がTEL。なんとか10月12日(月)に予約が取れた。
母と二人で見舞う。

【2020年10月12日(月)】

2020年1月正月休みで面会して以来の父、88歳。

車椅子に乗って、フェイスシールドも装着させられて登場。
こちらはマスクとフェイスシールド。どんどん曇って、前が見えなくなってくる。

父は、「なんだ?」という。
私は、「淳子だよ!」という。
父は、「何の用だ」と聞く。
私は、「今週いっぱいまでしか面会できないというから会いに来たよ」と答える。

会話はたいして盛り上がらず、11歳の甥っ子最近の写真をiPadminiで拡大して見せてみる。

孫を見るのが一番幸せだろう。

久しぶりに会った父。10月12日(月)。元気そうであった。

その後、介護施設は再び全面面会禁止となる。「便りがないのはよい知らせ」とまた過ごしていたのだが、10月22日(木)、39.1°発熱の知らせ。原因不明(検査などしないから)。

翌日熱は下がったらしく、またしばらく連絡が途絶える。

10月27日(火)、施設から連絡。

「熱が上がったり下がったり。血圧不安定。食欲なく、水分もほとんど摂れていない」とのこと。

【2020年10月28日(水)】

これはまずいなと思い、28日(水)会社を休み、妹とともに施設へ面会に。発熱日以来、「病気の入居者家族については面会を解除している、だから見舞いに来てよい」と言われていた。

父は、座位を保てなくなっているということで、ベッドに横になっていた。
熱が出るまでは、朝車いすに移譲したら、寝るまでずっと車いすで過ごしていた。ちゃんと座り、ほぼ終日、NHKを見ているかNHKラジオを聴いていた。
発熱以来、初めて、寝たまま、となったのだ。

その横になっている父。より一層発言が聞き取りにくい。より一層言語不明瞭になっており、でも、認知はしっかり、ひたすらいろいろ話していた。

呂律がうまく回らないので何を話しているのかほとんど聞き取れず、単語と単語をつなげて「●●ってこと?」などと復唱すると、「違う!」といって怒り出す始末。怒る元気はまだまだあるぞ。

妹は一生懸命、「こういうこと?」「●●ってこと?」と父の話を理解しようと何度も復唱してみるが、父がだんだんとイライラしてきて、怒り出す。

すると途中から、ほとんど理解できないはずなのに、やたらと「へぇ」「そうなんだぁ」「ふーん」と相槌ばかり打っている。作戦を変更したようだ。

父、妹、私の3人。なんとなく会話が弾まない。

そうだ!この話なら盛り上がるのではないか、父も喜ぶのではないか、と思い、

「お父さん!私、今、本を書いていてね。来年の4月ごろ出版予定なんだけど」

と言ってみた。

すると、父、急にぱっと明るい笑顔になり、身を乗り出さんばかりに(寝たきりなんだが)、

「おお!そうか、本かー。何冊目だ?」

などと元気に声も大きくなり反応。

そうやってやっと会話もかみ合い、互いに話している内容も理解できたところで、「じゃ、またね」と帰った。

【2020年10月30日(金)】

翌々日10月30日朝、施設から電話。「酸素濃度が下がってきました。搬送しますか?」

仕事全部キャンセルして、施設に駆け付ける。
妹一家も仕事や学校を早引きして千葉県から駆け付ける。

到着したときには、酸素吸入されていた(施設で酸素はできる)が、意識明瞭、会話もできる。顔色も悪くはない。でも、ご飯食べていないので、痩せてきているし、28日より弱っている。

たった2日で、かなり元気がなくなっているのがわかる。

「ご本人の意思が確認できない」と看護師に言われたので、家族としては施設での看取りと思っていたが、本人に聞かないのはまずい、心残りにならないよう、私は父に尋ねた。

「お父さん、病院に行きたい?行く?」
「誰が?僕?」
「そう、お父さん。」
「行かない」
「じゃあ、ここにいる?」
「いる」

「父もここにいる、と言っています。」看護師に伝える。これは大事な会話である。

甥っ子(11歳)には、「じいじに会えるのは今日が最後かもしれないから、ちゃんと握手してあげて」と話した。甥っ子は、じいじが怖いので、普段からあまり近づかないのだが、その日は、「帰りたくない。ここにいたい」と言った。『僕が帰った後、じいじが死んでしまったらどうしよう?』と不安だったのかもしれない。

家族全員で交替しながら、父とともに写真撮った。あ、この日は、フェイスシールドもしなくくてよかったので、マスクだけである。

酸素吸入0.5→1.0くらいにその日の夕方上げられた。

父の部屋を出る際、「ばいばい。お父さん、またね。また来るねー」と話した。父は手を振った。

【2020年11月3日(火) 文化の日】

再び、妹と私とで見舞う。(母は、別の時間帯に毎日見舞っている)

30日(金)の時より、一層元気がなくなってきていた。身体もぺちゃんこである。食事もひとくちふたくち。ゼリー状の水分もそのくらい。ほとんど食べていない状態。

酸素は外せない。血圧も不安定である。

ああ、そろそろ、次の世界への準備なんだなぁと思った。

父は、私たちが子供のころ、母の郷里単語半島に埼玉県から車で運転していったこと、単語半島の海に毎日出かけたこと。「おれは泳げないけど、海の熱い砂の上を歩くと、1年水虫にならなかった」なんて話をしていた。

「お父さん、それは、本を出さないと!『医師が語る! 熱い海の砂を歩くと水虫が治る!』。ヒットするかもね」などというと、ふふふ、と笑っていた。

ほかにもいろんな話をしていた。

「また来るねー」といい、施設を後にする。

【2020年11月4日(水)】

母が見舞うと、「家族だけじゃなくて、会わせたい人がいたら連絡していいですよ」とスタッフに言われたそうだ。近しい親戚や知人に連絡をとる。翌5日、近所の友人夫妻が見舞ってくれた。

私は、11月7日(土)に見舞おうと思いながら、どきどきしながら在宅勤務を続けていた。

【2020年11月5日(木)】

22時過ぎ、母から電話があった。

「お父さんの呼吸がおかしいって連絡あったから、今から行ってみる」

30分後、母から電話。

「お父さん、もう息していない。顔が土気色だもん」

・・・・

私は、旅行鞄に思いつく着替えなどを突っ込んで、タクシーで施設に向かった。0時半到着。

父は、ずっと住んでいたその部屋のいつものベッドにものすごく穏やかな顔で眠っていた。


葬儀屋さんが夜中の1時ごろ到着して、ドライアイスの処置をしてくれた。

しばらく父のところにいたが、真夜中だし、いったん実家に帰ることに。母と私は、2時過ぎに床についた。

【2020年11月6日(金)】

翌6日朝、妹一家が到着。父に対面。

施設の看取りがいいなぁと思ったのは、顔に白い布をかけることなく、普段通り、いつもそうして眠っていたようにベッドに寝かせてくれていた。霊安室ではない、ずっと過ごした部屋にだ。

私が父の額や頬っぺたに触れていたら、甥っ子(11歳)が「触っていい?」と聞いた。「いいよ、じいじ、触ってあげたら。喜ぶよ」と促す。

死んでしまった人を触るのは人生初体験であろう彼は、思いっきり腰が引けた状態で腕だけ伸ばし、おでこに触れていた。じいじも嬉しかったことだろう。

11時頃、葬儀屋さんがやってきて、居室からエレベータホールに。そしてエレベータから1F 正面玄関へ。

介護スタッフの皆さん、20人くらいが列をなして待っていてくださった。

父は、ストレッチャーに乗って、大勢に見送られ、堂々と正面玄関から出て、寝台車に移った。施設の皆さんが、大勢見送ってくださって、なんというか、「行ってらっしゃーい」という感じだった。晴れ晴れしいような。(介護施設ってこんな風に見送ってくださるのだ!と知った。とてもうれしかった)

葬儀は12日までできなかったので(冬場はなんせ混んでいる)、しばらく斎場に安置していただくこととなった。

【病院搬送か施設での看取りか】

10月22日に発熱以来、病院に搬送しますか?と確認されたことが数回あった。

おそらく、自然に旅立とうとしている状況だろうと思ったし、施設の方も「看取りについての契約を」と話していたし、病院には連れて行かずに、介護施設の、6年近く過ごした部屋で父は、父は、TV見て、甥っ子の写真を眺め、見舞いに来た妻や娘たちや孫に何度か会って、そしてさいごは静かに旅立ったのだ。

コロナの時代、もし、病院に搬送していると、コロナの検査もあったらしい。PCRの結果が出る前に亡くなると、コロナ患者として扱うしかないため、お骨にするまで家族に会わせられなかった、と、後から医師に言われた。

父は呼吸が停止する1時間くらい前までスタッフと会話していたという。その日は、朝から小さなハーゲンダッツを2回くらいに分けて1個食べたそうだ。

夜になり、自然に心臓も何もかも停止したのだろう。

発熱から2週間。

死亡診断書を書いてくださった医師、同席の看護師、「先生、お見事!」とおっしゃったそうだ。

あ、父は、施設で「先生」と呼ばれていた(医師なので)。

苦しいとか痛いとかなく、また、昏睡状態に陥ることもなく、認知もしっかりして、言語不明瞭ながらも家族と会話し、「カツカレー食べたい」と言ったりして、「カツとカレーは別にして」と言ったりして、「海で水虫を直した」なんて話したりして、甥っ子が「大きくなったなぁ」と感想をもらし、酸素吸入はしながらも、最後に話したかったことをたくさん話して、眠るように命の灯を消したのだろうと思う。

あっぱれである。

「こんな風に死ねたらいいな、理想だよ」と妹は言った。

あと1ヶ月で89歳の誕生日だったのは残念だった。

でも、命が最終段階に入っていることは、10月28日に見舞った時点で直感した。

自然に旅立てるようサポートしてくださった医療と介護のスタッフの皆様には感謝である。

田中家の父の介護物語はこれでいったん幕をおろす。

とはいえ、介護施設に入ってどんなことがあったのか、とか、葬儀や葬儀後の顛末など、物書きとしては、記録せずにはいられないあれこれがたんまりある。

父は、私が何かを書いて発表することを楽しみにしていたので、怒られることもあるまい。

介護の話、看取りの話は、なかなか聞くチャンスもないし、読んだ方から、「役立った」と言われることもたまにあるので、時々、様々な経験を書いていきたいと思う。

長年、見守ってくださっていた皆様、ありがとうございました。

本人には聞いていないけれど、たぶん、「幸せな人生」だったと思います。

お父さん、長い人生、お疲れ様でした。
ありがとうございました。

今日(12月5日)、本来なら89歳の誕生日だったが、家族でカツカレー、食べます。

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【オマケ:父のキャリアについて】

ところで、父は、内科医で77歳まで50年間、フルタイムで働いていた。それは本人もとても誇らしく思っていた。「お父さん、77歳まで働き続けたってすごいよ!」というと、「そうだろ?」とニコニコしていた。

亡くなってから、父の名前で検索したら、父が35歳の時に書いた論文が出てきた。

「アメリカ,ウイスコンシン大学医学部内視鏡室に勤務して」https://www.jstage.jst.go.jp/article/gee1961/9/4/9_4_418/_pdf/-char/ja


父は、医学博士をとってからしばらくして、アメリカに赴任する。ウィスコンシン大学で「胃内視鏡」を教えるためだ。その際のことがこの論文には書いてあるのだが、当時、日本のほうが技術が進んでいて、アメリカにあまり広まっていなかった胃内視鏡をアメリカ全土に普及させる活動をしていたとある。へぇ、そうなんだ!と驚いた。

恩師(上司)モリシー氏の名前が出てくるが、よく「モリシーが」と話していたことは私も覚えている。この論文、35歳らしい、若々しい文章でつづられている。なんかエネルギーに満ちている。父にだって、こういう時代が当然あったのだ。

帰国後は、社会保険横浜中央病院で内科医として60歳まで働き、40代だったと思うが、「胃内視鏡だけでは生き残れない」と、あらたに透析を勉強しに行って、今度は、中央病院に透析センターを開設したりもしている。

60歳から77歳までは、善仁会でお世話になった。人間ドック「ヘルチェック」で院長をしていたこともある。

77歳以降の父は、おじいちゃんで、義弟や甥の目には、「怒りっぽい、怖い頑固じいさん」と映っていただろうが、現役時代は、専門を複数築くなどして、バリバリと野望も持ちながらキャリアを重ねたのだなとと思う。これという趣味もなく、仕事しかしなかった。でも、医師という仕事が好きで、精いっぱい医師として生きた。それもまたあっぱれである。


【棺に入れた写真】

「Oct. 17.1964 羽田空港特別室にて。
この語、6ヶ月間音信のみ」と裏面に記載されている。アメリカに父が発つ日のもの。
母と私(1歳)は、半年遅れでアメリカに行った。

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※介護と看取りについては、山ほど書きたいことがあるのだが、オルタナに書き続けることでもないと思うので、オルタナでは人材開発を中心に書き、介護と看取りの話は、noteで書いていこうと思う。

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