思考の基本が二項対立であるのはいかがなものかと思う
物事にはなんでも経緯があるわけで、単純に目の前の事象だけを見て全部判ったような気になってはいけないというのは多分に自戒がこもった私の意見です。だからといって何も言わないのが正しい訳ではなく、触れた事象に対して自分なりの意見を持つのは大事なこと。その積み重ねから自分なりの経緯を踏まえた意見が作られるわけですが、姿勢として「これはこうでなくてはならず、それ以外は間違いである」という二項対立を軸としてはいけないとも思っています。
非常に抽象的な話で、なおかつそれを上手く説明しにくいんですが、そういう立場を取ろうとするとなんだかモヤモヤする事が結構多かったりします。
もちろん(真っ直ぐ考えて)1+1=2のように明らかに正解がある話であれば別です。でも世の中の事象でそんなに単純に解釈できるモノは少ないと思うんです。少なくともワタシは。
「こうであらねばならぬ」という意見を共有できる範囲の事を時々考える
知人友人の間であれ、地域であれ、企業などの組織であれ、あるいは国家であれ、多様な意見の存在を認めるのが社会の根本じゃないかという思想を持っている私の場合、自分の気に入らない意見や対立する意見の立場を取る人を糾弾するというのに共感することは基本的にありません。
全く知らない分野の話でなければもちろん目の前の事象に対する自分の意見は持ちます。それが形成させるまでの自分なりの経緯があっての意見は当然ですが持ちます。そして機会があればそれを誰かと話をしたり文字にしたりする事もあります。ただし、それぞれの意見はそれぞれの立場や経験から生まれるもので、明らかな間違いでなければ誰からも否定される必要は無いとすら思うこともあります。
これは逆に言うと自分以外の誰かの意見に対しても同じポジションを取るわけで、誰かの意見を頭ごなしに否定する必要は基本的に無いと思っています。もちろん自分が本当に良く理解している事であって、それに対して明らかに事実誤認や誤解がある場合には「それは違うよ」と言うこともあります。ただ、その人がその意見に達するまでに経た流れは自分とは違うものですから、それ自体を否定する必要はない。更に言うと、その意見自体は間違っていてもその人自身を否定する必要は無いと思うんです。
意見を否定しても、その人自体を否定する必要はない。
もちろんそれが非常に難しいと思うような状況に遭遇する事はあります。ぶん殴ってやろうかと思うような状況に遭遇する事もあります。ただ、以前ほどには握りこぶしに力が入らなくなったのは歳のせいでしょうかねぇ(笑)
ソーシャルな何かの世界で良く見かける二項対立
もちろんネット上の話だけではないし、そもそも対立する意見の存在を直ぐにでも何とかしなくちゃというキモチがあるとか色々な背景がある話ですから一概に何とも言いづらいですし、そもそも第三者に話が伝わった時点で曲解や改変が見られたりする場合もありますし、前後の話を全部すっ飛ばしてある部分のコメントだけが取り上げられて祭り状態になることも良く見かけます。
もちろんそれをどう受け取るかは人それぞれですが、相変わらず二項対立の構図を良く見かけるよなぁと思うことが良くあります。電力系の話しかり、通信端末系の話しかり、政治・政局の話しかり、企業や何らかの組織に対する話しかり。
中庸がいいとは言いません。中には対立の構図を解決する方法が実は存在しないような話もあるし、対立する(ように見える)どちらかの方向に終息させる必要がある話もある。下手をするとどっちつかずの立場を見せると両方から叩かれるような状況もあったりしてなんだか非常な窮屈さを感じる場もあったりするわけですが、大事なのは自分の対立する意見の存在を認め、それぞれのの間のグラデーションの存在を認めて、どこに本当の落とし処があり、どうやってそこに向かうかという話をするべきなんじゃないのかなという事を最近良く思います。
非常に抽象的な話に終始してるのには一応理由があって、なおかつそれを上手く説明しにくいんですが、なんだかモヤモヤする事が多い今日この頃です。