コタツ記事の向こうにあるAI頼りの情弱という現実
主義主張、思想信条、経験知見その他の全ては人ぞれぞれですが、何かのトレンドが世の中的に一気に広がる事が時々あって、多分AIを取り巻く今の状況はそういう説明ができるかもしれません。因みに個人的には今でもAIというと1990年代の「第五世代コンピュータ」を思い出してコネクションマシンがどうのLispやPrologがどうのルールベースな手続き型言語がどうのとか思い出してしまい、それを口外すると単に老害とか生きた化石とか何それ知らねぇよ黙ってろと忌み嫌われるわけですが、まぁそれは甘んじて受け入れます。
大変申し訳ございません。
勿論その流れに対して自分自身思うところは幾らでもあるんですが、そんな小さい個人の感情とは全く関係なく世の中は進んでいて、実際つい最近自宅の自前自分用のWindows10のPCに見切りをつけて手に入れたWindows11のThinkPadにはCopilotキーがついていたりして「余計なキーでキーボードを虐めるな」とか思ってる私はやっぱり多分生きた化石なのだろうと思うのですが、それでもそういう方向に考えが向く理由はあります。
因みに、AIと呼ばれる一連の技術を否定はしません。
但し、それをなんだか全知全能のような受け取り方をする向きがあるのには「どうなんでしょうね?」って思う程度の実存主義者であるかもしれません。
昔から存在する「コタツの上だけで完結できる記事」としてのコタツ記事記事という世界
2010年に本田雅一さんが提唱した「ブログや海外記事、掲示板、他人が書いた記事などを「総合評論」し、コタツの上だけで完結できる記事」(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』/ コタツ記事」)としてのコタツ記事の話は今でも厳然と存在しています。私自身は実はその頃から「コタツ記事」という言い回しを聞いたことはありましたが、でも当時も今も職業ライターではないし、ブログやFacebookをはじめとするSNS上での話も見かけた話をフックにしたとしても基本的には「自分はこう思う」という趣旨の事しか書かないと決めていますし、実際、ごく少数の例外を除いてそういった流れになっていない書き方はしていないつもりです。
ただ、世の中のメディアにも個人ブログを含むSNSなどで流れる話にも単純かつ悪質なコピペは今でもありますし、前述の「コタツ記事」も多く存在してることに気がつくのは容易だと思います。
そして例えば文字情報としてそれらが元記事や元情報を凌駕する規模で流通してしまうと権利上や倫理上の問題も含めてそれらを書いている人や組織、そして流す媒体が妙に高い評価を受けたりすることがあるのは職業ライターではない私ですら如何なものかと思いますが、現実は現実。
その意味では常に情報に接する側が試されてるのだと思っています。
コタツ記事に愛はあるのか
自分で取材せず裏も取らず見つけた情報だけで記事を書く誰かやそれを流す媒体の信義の話は当然あるわけですが、例えば「それが売れるから書くんだ金になるから書くんだ」とか言われると信義とかそういう話ではなくPVだけを積み重ねたいインプレゾンビなんですねとか言って喧嘩を売りたくなりますが、残念ながらシャイで内気でナイーブな弱腰なので、中々そこまでは踏み込めません。ちゃんと通信社なりソースとなった媒体社なりを明示してくれたらたまたま接した媒体の掲載記事でもちゃんと読みますけど、僭越ながら「どう考えてもこの媒体に署名記事でもないこういった記事を載せるって変だろ」とか「この記事どう考えても取材してないだろ流れてる情報繋いで書いただろ」みたいなのに接することはあります。
残念ながらあります。
PRとか広告とか書いてくれてたほうがよほど諦めがつきます。
コタツ記事には愛はありません。
因みにAIがネット上を走査したうえで構成した記事について、AIと呼ばれる仕組みはコタツに入ることは当然ですが無くてそれ自体がコタツを遥かに上回る電力を消費し熱を出してるんですが、これは何記事といえばいいんでしょうかね?
コタツ記事ライターの暗い未来とAIの明るい未来
AIが書いた文章を「人間が書いたものではない」と表記するルールが世の中に存在していない状況なので正直記名記事以外に誰が責任を持って書いた文章なのか記事なのかを判別する手段が無くなってしまった一種の暗黒時代に突入してしまった昨今ですが、それでも今のところはコタツであれどこであれ何であれ記事を書いた「記者」が物理的に存在してる事はまだ多いようです。でも、間もなく...ってか既にみんな大好きAI様が同様の文責を問えない振る舞いをしまくる世界が来てるので、さてどうしますかね?といろいろ考える必要があると本気で思ってます。
必要な情報を食わせた特定用途のAIのエンジンは別に良いんです。それはそれで使う人が責任を持って使う道具なので。
でも有料無料とかそういう話じゃなく、一般が使える道具であるにも関わらずその道具自体がどう振る舞うのが「正しく役割を果たす」ことになるのかが定義されていないんですから。
因みに自分がここからどうしても自分が抜けられないのは2002年頃を中心にエンタープライズサーチのエンジンそのものを使ったソリューションのマーケティングをやった事が最大の理由だとの自覚があるのですが、その根幹は「食わせた情報に無い結果は返せない」、「食わせた情報から何かを創造することはできない」および「出力結果が正しいか間違ってるかの判断をエンジン自体は出来ない」という話です。
あとは今存在する各種のAIのエンジンがなぜその結果を返せるのかを作ってる側の人も理論的に説明しきれていないという部分も勿論あって、いやそれでも世の中の叡智を結集する形で発展している「AIの世界」を否定はしないのですが、どうなんでしょうねというところが拭い去れません。
駄目ですね。堅物過ぎます。
だからこそ、誰が何の責任に負いて生成したかわからない要約とかあてにせずに眼の前に流れてきた情報のソースを探して内容を理解することが過去にも増して大事だと思ってます。真偽について考えることが必要だと思っています。AIのエンジンの出力を何かに使うのであれば、それをどう理解しどう使うかが大事だと思っています。
もはやAIを使いこなせないとかが情弱ではないと思っています。
ソースに辿りつけないのが情弱。
ソースで述べられていることや説明されていることを理解できないのに何かを断罪したり判断したりすることが情弱なんだと思います。
今はそんな世の中なんだろうなと思っています。
勿論、自分自身の話として知っていることと知らないことを比べるとアリと東京スカイツリーあるは富士山くらい違うのは理解しています。でも眼の前に流れてくる誰が責任を持つのかわからない情報を例えばAIが提示してきたから正解だとか盲信するのは嫌ですし、SNS上でみんなが言ってるから真実だと盲信するのも嫌です。
それくらいの主体性は持ち続けたいと思っています。
---iwa