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通信業界特殊偵察部隊のモノゴトの見方、見え方、考え方

世界中の誰よりきっと

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中山美穂さんの訃報に触れ、しみじみと「世界中の誰よりきっと」を聴いています。
何より先ずは御冥福をお祈りしたいと思います。

そして自分の心にゴリゴリに刻み込まれているこの曲、リリースされたのは世の中的にバブルが崩壊した翌年の1992年。
当時まだ30になるかならないかの時期。今は私もすっかり年寄りになってしまいましたが、いや、それでも私にもそんな若い頃があったんですよ。

1992年

リリースされた1992年は最初に入った日本IBMで足掛け6年間も大和のブリーフィングセンターにいた最後の年。部署を離れるときに部門解体で結構辛い思いして、最後の日は大和で一緒に仕事してた開発部門の仲の良かった人と中央林間でベロベロになるまで飲んで、小田急の踏切の横の車寄せのところのベンチに座ってしばらく泣いてた。そして翌年は展示会の出展事務局専門部隊に居て、その後の2年は宣伝部門にいた、ちょうどそんな頃。

で、この曲、なにか恥ずかしくて別に今まで人に言ったことほとんど無いんですけれど、もう聴くと晴海の国際展示場のA館とかドーム館とかが目に浮かぶんですよ。なんだかあの時期、それくらいよく聴いたんですよ。


東京ビッグサイトの前の、晴海国際展示場だった時代

それは1995年にビッグサイトがオープンする前の時代。当時の東京での大規模展示会は現在晴海フラッグ(五輪選手村だったところ)にあった晴海国際展示場でした。

体育館のお化けみたいなホールが8つくらいあったと思うのですが、そのうちA館とドーム館はエアコンがあったのでビジネスショウとかデータショウとかの出展小間位置の抽選でこの2つのどちらかが当たるとみんなで狂喜乱舞した時代。そして会場で設営中や本番中にお客さんが入る前とか、どこかのブースのPAさんが絶対にこの曲かけてたし、そもそもラジオでもかかってたし、カラオケスナック行くと必ず歌うチーママが居たし、あちこちにできたカラオケボックス行ったらやっぱり誰かが絶対歌ってた時代。

強がる以外に生きる場所がなかった時代

ちなみに展示会の事務局という仕事なんですが、展示会の出展事務局って現場に入る数ヶ月前から泥水飲み続けて、たとえば当時のビジネスショウだと1200㎡の敷地を通路挟んで2つとかとんでもない面積を押さえて出展してて、時代だからってのもあるけれどナレータとオペレータのコンパニオンを100人くらい使ってたわけですよ。

そんな状況で私自身はおそらく一般の社員の目から見ると「なんて浮かれた仕事やってるフザけたクソガキだよ」と見られてたであろう30ちょっとのガキだったんですが、実際には現場に入るまでに泥水飲みすぎて開幕した瞬間に入ってきたお客さん見て「非常ベル鳴らせばみんな帰ってくれるかな」とか危ないこと考えてたりしてたんだけど、制作会社含めての打ち上げでも必ず誰か歌ってた時代です。

結果的に謂れのない中傷とか裏での悪口とか散々受けてたんですが、直接一緒に仕事していた社内外の関係者の皆さんからは信頼を得られていたとはいえ、今でもあの頃は辛かったと言いたくない時代です。

結果的に、その頃って実は暗いスナックとかカラオケ屋の端っこでこれを誰かが歌うのを聴きながら泣いてました。今でも胸がぐっと来るくらいのレベルで。

 

懐かしい。
何もかも皆懐かしい。
30年以上前のことを懐かしがるほど無駄に長生きしてしまっているけれど、だからこそ、何もかも皆懐かしい。

自分が通ってきた時代をずっと覚えていられる曲を貰えて、本当に感謝しかありません。
そして改めて、御冥福をお祈りしたいと思います。

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