「みんなが言ってる」の「みんな」って誰かを疑ってみる
人が大勢いれば、そこで何かしら意見の方向性というのは出来るものです。みんながみんな同じ意見を持つというコトはありえない。それが有る一定以上の規模のクラスターになると「みんな」という表現になってくるのか、それともある一定以上の割合になれば「みんな」という表現になるのか。
でも、実態とは全く別に1つの意見の占有する規模を表現するときに意図的に「みんながそう言っている」という表現を使う事が無いか?そういいきる人がいたとすれば、完全に性善説に立ったお花畑の住人と断言しても良いんじゃないかと思います。ただし、そういう使い方が良い悪いという次元の話は別ですが。
多数決とは別の理論
ある意見を封じるために「みんながそう言っているんだ」という表現が使われる事があります。個人に対してもそうですし、何かしらの組織体に対して言われる事もあります。たとえば何らかの調査に基いて、その対象となった集団の中で例えば過半数を占める意見というのはそれなりに位置を占めているんだとは思います。ただし、その調査が用意している選択肢やら質問の文言によって意図的に意見を誘導する可能性がゼロかと言うと、実はそんな事は無いと思っています。なにしろ必ず何かしら意図があって調査を行うわけですし、全く真っ白の完全中立な対象に対して調査をかけるのは至難の業ですし、その集計も何かしら意図がある中での集計ですから、基本的に全くバイアスがかからない調査というものは存在しないと思ってる私なので、その結果を見る場合には必ず調査主体や時期、可能であれば調査フォーム自体を確認してから結果を受け止めるという行動を可能な限り取ります。
もちろん全ての調査が意図的に何かを訴える媒体として利用されているなんて事は思っていません。でも実際にそのようなものが存在するし、結果的にその調査結果が何かしらの力を持つこともあるわけです。更には、調査結果の一部分だけを切り取って全く意図しない方向の話の裏書に使われる事すらあるわけで、だからこそ裏を取る事が大事なんです。何事にも共通する話ですが、絶対にこれを外して物事を論じるべきではないと私は思っています。
意図的に多数である事を誇示するときに使われる事がある「みんなが言っている」という表現
正直な話、随分前ですが、当時所属していたある組織の中で意図的に干された状況に陥ったとき、そこで使われたのがこの「みんながそう言ってる」という表現でした。いわれの無い個人攻撃に晒されたのですが、面と向かって私を攻撃してき人が、正にその言葉を正面から投げつけてきました。
じゃぁその「みんな」って誰なんですか?私が自分からチャンと状況を説明しにゆきますからたとえばその中の代表となるような人を教えてください。この場で電話してアポとりますから。
でもね、出てこなかったんです。悔しいので自分のルートで可能な限りその話の裏を取ったのですが、結果的にある一定のグループの中で非難をしていると思われるクラスターの存在までは突き止めました。ただ(その件に関しては)実際には私の言動が何かしら問題を起こした形跡は全く無く、結果的にそのクラスターに近かった「私を攻撃してきた人」がそれを利用して私を叩きに来たというところまで裏が取れたところで、最終的に大喧嘩して決裂し、その人と一緒にやっていたあるプロジェクトから降りたというのがそのときの流れ。実は元々色々と経緯があってある意味「最終兵器」(笑)として投入されたという立場だったのですが、結果的に最後まで付き合う事が出来なかったという事例です。
で、私がその仕事を降りたという結果はどうでも良いのですが、自身の立場は実は誰かに裏書されているんだぞというところの表現として「みんなが言ってる」という表現を使われたという事例に遭遇したのは非常に良い経験でした。もちろんたとえば子供の頃の喧嘩の1つの手段として同じ事をやらられたことがあって、結果的に私は物事をシニカルに見る癖が付いたのですが、きっとこの人は昔からそういう風に人をやり込める事で自分の立ち位置を作ってきたんだろうなぁと思った次第。
で、ここで大事なのは、とりあえずキチンと説明し辛いことや説明出来ない事の裏書として「みんなが言ってる」という表現が使われるというのは別に私の個人的な体験だけではなくて、実はもっと汎用的なものであるというコトをキチンと考えてみる事。全ての裏を取る事は出来ません。このあたりの話を突き詰めると、そもそも「マーケティングとかPRの仕事のある一定部分ってそういうことじゃないの?」と言われて凹む訳ですが、それも否定できないのは事実。勿論程度問題とか倫理観に基いてとか、非常に抽象的なところに拠り所を作るしかなくなるんですが・・・
因みにこのエントリーを書く切っ掛けになったのは、別に某調査に対するどこかの企業の介入の話とかそういうレベルの話ではありません
誰かを擁護するとかそんな事は無いのですが、やはり気にはしています。CSRというところで考えると倫理上いかがなものかと思われる部分はあるんですが、その主体の立ち位置だけで意見を封殺されなくてはいけないというのもどうなのかと思ったりとか、やはり正直しんどい話だとは思います。それこそ何らかの意図を持った直接の当事者とは違う第三者の顔で意見を大量動員したときの結果を本当に全体の意見として採用してよいのか、そもそもその結果を広く集めた意見として採用してよいのか。たとえば公職の選挙であれば(制度上の欠陥は別にして)選ぶ立場にある人が選ぶ権利を行使して選ばれた人であると言い切れるだけの制度があるからこそ成立しているわけです。その流れに沿って、キチンと制度を作る=たとえば国民投票の仕組みをキチンと整備しようよという話が中々機能しないまま、なんだか声の大きな誰かとか、それなりに影響力を持った何かが言うコトを全体の意見として見る風潮があるよねと言う風に見えるわけです。
穿った見方をすると、実はそういう制度が無いほうがいい人も一杯いるよね、というところもチラッと思ってしまうんですが、このあたりを突っ込むと政治信条とかの面倒くさいことに入り込むので、それはそれとして・・・
因みにその流れで言うと、他にも色々と言い変える事が出来ます。
- 基本形: みんなが言ってる
- 応用1 地域のみんなが言ってる
- 応用2 地域のみんなが言ってる
- 応用3 ネットでみんなが言ってる
- 応用3-1 私のSNSの繋がりの中のみんなが言ってる
- 応用3-2 私の観測範囲のみんなが言ってる
- 応用3-3 Twitterのみんなが言ってる
- 応用3-4 私のフォロワーがみんな言ってる
- 応用3-5 RTされてくるみんなが言ってる
- 応用3-6 そういう意見しか私にはRTされてこない
- 応用4 業界のみんなが言ってる
- 応用5 学会のみんなが言ってる
- 応用6 業界のみんなが言ってる
- 応用7 週刊誌が言ってる
- 応用8 テレビが言ってる
- 応用9 新聞が言ってる
- 応用10 私の敬愛するあのひとたちが言ってる
- 応用11 「大マスコミに対抗する!」と頑張ってるみんなが言ってる
別に何処の誰かを非難する話ではありません。これらの状況が間違っているとも言い切ることは当然ですが出来ません。でも、それが正しいとも言い切れない。完全に何かしらの意図を持って動いているのが発覚しない限り、どこにでも事実や真実は隠れているし、それとちょっと違う意図は隠れているし、善意の誤解や悪意の曲解も潜んでいる。それをどうやって見極めるかというのは最終的に個人の仕事になるわけで、だからこそ自分は普段からどんなことを考えている誰と一緒にいて、その人たちと何を話していて、そこで何を思っているかというコトをキチンと考える事が大事だと思っています。
たとえば、非常に単純に「ネットの中のソーシャルな関係のなかで新しい関係を築くことによって生み出される新しい何か」を盲信してはいけない。志向するのはいいと思うんですが、それだけで構成されるようなお花畑はファンタジーの中だけで充分。物事は現実があって、そこに実際に人がいて、実際に生活をしていて、物理的に生き物としての生き死にがあるという基本的事項を忘れちゃいけないと思うんです。
「みんな」って誰?その実体は何なの?で、自分はどうなの?
これを忘れたら駄目だと思うんです。絶対に。