30代半ばサラリーマンが起業を目指したときの心理状況実録
大木さんの『起業についてひと言、に加えてひと言、ふた言』や、佐々木さんの『大儲けするだけが独立・起業の目ざす到達点ではないと思う』、そして永井さんの『「勤め人としてお金を稼ぐ」のと、「ビジネスでお金を稼ぐ」のは大きく違う。ということで、ビジネスパーソンは、セールスの仕事を一度経験するとよいかもしれない、という話』のエントリーをお読みして、自分の起業の時の心理状況を考え直していました。
『起業を目指す人への反面教師的アドバイス:36歳サラリーマンたちは当初ラーメンチェインを考えたというお話。』にもあります。まるで異分野からこの業界にやってきた自分は、結論から言えば「何でもいいから経営をしたい」という考え方をしていたと思います。
起業を目指すこと、いや、アントレプレナーとなることはとても重要です。人間としての生き方としても幸せな考え方だと思います。そして、起業だけがアントレプレナーとなる道筋かと言えば、それは違うとも思います。
いずれにせよ、30代半ばでサラリーマンが起業について何を考えていたかの、ちょっと古い【朝メール】にその記述があったので、編集して記載してみます。
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■「着眼点の良さ」と「ビジネスを興す」ことの勘違い
「富士通が富士電機から生まれて大きくなったように、
東レから新しい企業を興してそれを成長させたい」
何かのテレビ番組か雑誌かに感化でもされていたのでしょうか。1986年、東レ入社当初の人事調査の長期目標にこんなことを書いたことを思い出しました。でもすぐにそんなことはすっかりと忘れて、目の前にあった高強度繊維「ケブラー」の仕事に没頭していったのです。
次に「起業」を意識したのは、東レの海外一般留学でバージニア大学に1993年からMBA取得のために派遣してもらったときです。1年目の授業では経営学について全般を広く学びます。2年目の授業ではそれの実践を学びます。
Starting New Ventureという授業がありました。授業の内容はいろいろなビジネスプランをケーススタディーして、最後には自分のビジネスプランを作って評価を受けるというものです。
「よし、知恵の見せ所!」
初めて作ったビジネスプランは次のようなものでした。
アメリカでは、ビデオとかテレビ番組にClosed Captionといって、聴覚障害者のための英語字幕表示が義務づけられています。その字幕を再生する、キャプションデコーダー(英語字幕表示装置)というものがあります。豊富なハリウッド映画の英語版ビデオも安く売っています。キャプションデコーダーとソフトとを組み合わせて日本に輸入し、英語教材として販売するというプランです。
「我ながらなかなかいい着眼点だなぁ」
自分としてはなかなかのプランができたと思っていました。ところが成績はBでした。A、B+、B、B-、Cの評価の中のBなのでどちらかというと悪いほうです。
今思えば「着眼点」と「ビジネスを興す」ということの違いにまだまだまだまだ気が付いていなかったのですね。
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■「ビジネスを興す」と逃避的に息巻いてみた時期
1995年にMBAを取得して帰国して、初めて東海工場の生産現場に配属されます。逆カルチャーショックを受けるとともに起業熱が始まりました。ぴかぴかのビジネス教育を受けた直後の工場現場のかけ離れた実態を受け入れられなかったのでしょう。
愛知県にあるトヨタ博物館に行っても刺激的です。豊田総一郎がトヨタ自動車を起こしたのは35歳です。30代半ばに何か特別な意味があるように感じます。33歳の自分にもその時が刻々と近づいているような気がしました。周りに息巻きます。
「今すぐにでも起業してやるんだぁ(炎)」
あるとき父親に諭されます。
「おまえなぁ、MBA取得の教育のため東レにいくら投資して
もらったと思っているの?」
「ん?給料も入れると2千500万くらいかなぁ。」
「それだけの投資を個人的に受けておいて、配属先が不満だからと
今やめるのは東レに対してアンフェアじゃない?」
「そうじゃないよ。起業するんだよ?チャレンジだよ?
生産現場ではあまりにMBAの能力生かせないと思うし...。
当然すぐにでも海外赴任かなって思って期待していたのだけど、
当面そのようなこともなさそうだし。」
「3年間全力で東レが与えてくれた課題にチャレンジしてみろよ。
そしてその結果が良ければそれでよし。うまく結果が出なければ
その時に堂々と起業すればいいじゃないか。おまえも東レに
チャレンジさせるチャンス与えなきゃ。」
「まぁ、そうだね。」
そう。アンフェアという言葉には弱いです。特にいいプランもあてもない中で、現実逃避的発想で「起業するんだ!」と周りに息巻いていた自分に気がつきます。そして、与えられた環境の中で全力でチャレンジできることを考え直します。
「3年間で何ができるだろうか?」
工場を歩き回って機械を眺めます。当時「ケブラー」の生産量は工場設計値からすると稼働率が50%を下回るような状態でした。設計値以下のポリマー吐出量でも如何に安定稼動させることができるかというのが重要な技術開発のテーマでもあったのです。これでは現場のモラルも下がってしまっています。
「よし、製品開発して、こいつたちをフル稼働させてやろう!」
4台のマシンがフル稼働して軽やかな音を立てて操業しているところを思い浮かべます。人々は忙しそうに仕事をしている。顔は充実感にあふれている。そして「ケブラー」の新製品開発に没頭していきます。結果的には4年かかりましたが、フル稼働は幸運にも実現できました。
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■アントレプレーシップは会社のどこにいても発揮できる
「東レでもね、ベンチャー制度始めるんだよ。坂本っちゃん、どう?」
東レで社内ベンチャー制度ができたのは1997年4月でした。当時経営企画室にたWさんと工場から東京出張の際に「ケブラー」の東京事務所で鉢合わせになります。Wさんも元「ケブラー」。Wさんがニコニコとベンチャー制度について説明してくれました。
「いいっすねぇ。海外一般留学も1期生だったし、
ベンチャーも第1号いただきますねぇ!」
冗談を返します。そのときには「ケブラー」の電子基板用途の開発がチャレンジングで面白くて、起業熱はどこへやら、飛んでいってしまっていたのです。
「アントレプレナーシップって、会社の中のどのようなポジションでも発揮できるからね。
要は心のもち方と周りを巻き込む。リーダーシップの発揮の仕方さ!」
こんなことを周りに話していました。
起業家精神、アントレプレナーシップって、どこにいても発揮できるという自説は未だに正しいと思います。
[ベンチャーやっている] = [アントレプレナーシップを持っている]
だけではないですからね。
ところが、このアントレプレナーシップを持って仕事に全力を尽くしていたことと、このベンチャー制度を知ったことが、自分のその後の運命を大きく左右するきっかけとなったのだから、物事って何が大切か分からないものです。