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株式会社インフラコモンズ代表取締役の今泉大輔が、現在進行形で取り組んでいるコンシューマ向けITサービス、バイオマス燃料取引の他、これまで関わってきたデータ経営、海外起業、イノベーション、再エネなどの話題について書いて行きます。

メモ:「ゲーム的リアリズムの誕生」にあった”大きな物語の衰退”

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東浩紀著「ゲーム的リアリズムの誕生」(講談社)を読んでみました。
ここ数年、仕事関係の本か聖書か太平洋戦争関連本ぐらいしか読んでいないので、少し新鮮でした。ただ、ライトノベルの状況をまったくわかっていないので、本論は空をつかむ感じがありました。残念ながら…。

それでも冒頭にあった次の記述はすごく参考になりました。

-Quote-
 ポストモダン化は、社会の構成員が共有する価値観やイデオロギー、すなわち「大きな物語」の衰退で特徴づけられる。18世紀の末から1970年代まで続く「近代」においては、社会の秩序は、大きな物語の共有、具体的には規範意識や伝統の共有で確保されていた。ひとことで言えば、きちんとした大人、きちんとした家庭、きちんとした人生設計のモデルが有効に機能し、社会はそれを中心に回っていた。しかし、1970年代以降の「ポストモダン」においては、個人の自己決定や生活様式の多様性が肯定され、大きな物語の共有をむしろ抑圧と感じる、別の感性が支配的となる。そして日本でも、1990年代の後半からその流れが明確となった。
-Unquote-

-Quote-
 ポストモダンにおいても、近代においてと同じく、無数の「大きな」物語が作られ、流通し、消費されている。そして、それを信じるのは個人の自由である。しかし、ポストモダンの相対主義的で多文化主義的な倫理のもとでは、かりにある「大きな」物語を信じたとしても、それをほかのひとも信じるべきだと考えることができない。たとえば、もしかりにあなたが特定の宗教の熱心な信者だったとして、現代社会はその信仰は認めるが、あなたがすべてのひとがあなたの神に帰依するべきだと考え、ほかの神への寛容を侵害することは、たとえそれこそが信仰の表れだったとしても決して許されない。言いかえれば、ポストモダンにおいては、すべての「大きな物語」は、ほかの多様な物語のひとつとして、すなわち「小さな物語」としてのみ流通することが許されている(それを許せないのがいわゆる原理主義である)。ポストモダン論は、このような状況を「大きな物語の衰退」と呼んでいる。
-Unquote-

遅まきながら、「そうか、そうなのか。『大きな物語の衰退』という時代把握のキイがあるのか」と思ってしまいました。非常に汎用性の高い概念です。

企業活動の世界では、「大きなマーケティングの衰退」ということが言えそうです。
音楽ビジネスの世界では、「国民的歌手の衰退」ということが言えそうです。
言論の世界では、「朝日ジャーナルの衰退」ということが言えそうです(なんちて)。

ネットワーク化された社会においては、旧来型の比較的固定的な「大きな物語」は成立しないかも知れないけれども、非常に流動的な「大きな価値観」は、2週間、3週間といった短い時間の単位で、成立しそうな気がします。ある価値観にたくさんのノードがリンクを張って巨大なハブとなる様が思い浮かびます。

「大きな物語」は、ある時期までは、おそらく歴史に耐えうるものとして存在していた。現在のネットワーク上で生まれる「大きな価値観」は歴史に耐えるものである必要はなく、ごく短期間に大量のリンクを集めさえすればよい。そのようなものとして存在している。短期間のうちに生成し、わりとすぐに衰退することが想定されている。

モダンとポストモダンが1カ月おきぐらいのサイクルでくるくる回って代替わりしていく。そういうスピード感?

ただ自分としては、例えば「久米島そば」が持つゆったりとしたリアリティの方に比重を置きたいです。あれに島とうがらしをたっぷりかけるとたまりません。


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