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価値観を決定的に変えてしまう選択について、あるいは「なりたい姿に近づく」という姿勢の危険性

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編集さんから毎月お題をもらって書いていく連載を始めて、1年以上が立つ。
日経BPのサイトに掲載されている「テクノ大喜利 ITの陣」というシリーズで、僕以外にも多くの執筆者が同じテーマについて書いているので、多角的に掘り下げられる、いい企画だと思う。
好き勝手なことを好き勝手な時に書くこのブログとは違って、お題も締切も原稿料もある。
ちょっとプロのライターっぽい。
普段から素人作家を自認しているので、続けられるか不安だったが、意外と続いている。
お題を他人から与えられると、自分ではあまり考えていなかったテーマについて整理する良い機会になるからだ。忙しい時や気分が乗らない時は締切が鬱陶しいが。。。

これまでDXやコロナ対応、経営者論や中間管理職についてなど、様々なテーマを投げてもらった。
3月は珍しく「あなたの転職経験や転職観を聞かせて」という自分語り系のお題だったので、昔話をさらりと書いた。

「転職を考える若者へのメッセージも」というリクエストだったので、最後にちょっと偉そうなことでも書こうかなと、

転職は「思い描いていたキャリアが実現できた」ではなく、「そもそも自分では思ってもみなかった自分になっていた」ということがあり得る。
だから「自己分析して自己実現のために」とか考えずに、その時々で譲れないものを追い求めればいいんじゃないの?

といったことを書いた。
とはいえ振り返ると、かなり言葉不足だったと思う。
それでもいくらかは伝わったらしく「なるほど、こういうことか」と感想を書いてくださる方もいたが、こちらのブログでもう少し補足したい。


転職だけでなく、結婚や子育て、大学の選択みたいな、人生で本当に重要な選択をする際には、誰しも自分なりに選択基準を色々考えるだろう。
だがそれは事後的に振り返ると、頓珍漢なことが多い。

なぜならこの手の選択は、価値観自体をゆるがす選択だからだ。選択した結果をうけて経験したことにより、選択前に持っていた選択基準自体が変わってしまう。

ありふれた例として、結婚を考えてみよう。
相手の条件として「そこそこの大学卒で、年収は600万以上で。。」などと言っていた人が、そうでない相手と結婚した後に、学歴や年収以外の何かを結婚生活から受け取っていることに気づく、なんてことは普通にある。特に幸せな結婚生活の場合は。
同様に「〇〇の理由で子供は作らない」と言っていた夫婦が事故的な妊娠の末に子供ができたら、「なんでそんな風に思っていたんだろう?」と不思議に思うとか。
これが「事前の価値観と事後の価値観が大きく変わってしまう」ということだ。

一般論だけでなく、僕自身の経験も話そう。
高校生は進学校だったので、当然のように大学受験に向けて勉強をしていたのだが、もちろん勉強は嫌いだった。
なのになぜ良い大学を目指すのか?ともし当時聞かれれば、「人生の選択肢を広げるパスポートを得るため」「良い大学に入っておくと、その後の人生が楽そうだから」などと答えたはずだ。
そう、嫌なガキだったのだ。
でも「楽しいことを我慢して勉強するのだから、後に見返りとして楽できなかったら理屈に合わない!」とは割と真剣に考えていた。そうでなければ、嫌いな勉強をやるわけがない。

だから当然、大学に入ってからは勉強するつもりは微塵もなかった。
勉強なんてしなくても卒業は出来るらしいし、だとしたら勉強する理由は何一つない。
だが結果的には学問にいそしんでしまった。当時の大学生としてはかなり真剣に学問に打ち込んだ方だろう(大学院に進むか、結構悩んだ)。

パスポートを得るために入ったはずの大学で、価値観を根底から変えられてしまったからだ。パスポートとは全く違う何かを入手したというか。それが何なのか、一言で言うのは難しいが、
・コンセプチャルスキル
・必要もないのに楽しいから学ぶ姿勢
・答えのない問いを考える技術
・問いのない問いを作る技術
・文章力
・師匠を持つことの大事さ
・友人や伴侶
などであろうか。

そして滑稽なことに、卒業後はパスポート機能をほとんど使わなかった。学歴がないと入れない商社や銀行には就職しなかったし、学閥が幅を利かすような会社に属したことがない。僕は母校が好きなので本の奥付とかには出身校を書いているが、あんなもの誰も読まないだろう。

これが「大学とは、入るときに考えていた目的と、出るときに得ているものが違うタイプの機関である」という話だ。

ちなみに、歴史上には僕よりずっと劇的な例もある。
僕が最も尊敬する偉人はチャールズ・ダーウィンだが、彼がケンブリッジ大学に行ったのは牧師になるためだった。
だが彼はそこで神学ではなく博物学を学び、有名な航海で見聞きしたことをベースに思索を重ね、ついに進化論に到達した。
キリスト教を殺したのはイスラム教徒でもなければ、コペルニクスでもなく、進化論だ。
摩訶不思議で精巧で美しいこの世界が、神様なんて想定しなくても出来上がることを示してしまったのだから。
つまりダーウィンは神に仕えようと思って大学に入り、学んだことを使って、神を殺してしまったのだ。今でもアメリカでは宗教保守派が進化論を学校で教えるのに反対しているが、彼らの存在をダイレクトに揺るがすのが進化論なので、必死になるのも無理はない。

それにしても、神学を学びに行った大学が、神を殺す道に通じていたというのは、なんという皮肉だろうか。

「選択をする際には、なりたい姿を思い描き、それに近づく選択をせよ」という世間の常識に対して、僕がずっと懐疑的なのはこんな背景がある。

逆に言えば、「なりたい姿に近づくための選択」ばかりをしていくと、自分の殻から抜け出すことができない。
成長とは「以前できたことが10%効率よく出来るようになる」という話ではなく、「以前は大事だとすら思っていなかったことに、無我夢中で取り組んでいる自分に気づく」みたいなことだと思う。

*******参考過去記事
野望ドリブン成長法、あるいは僕の個人的野望リスト
https://blogs.itmedia.co.jp/magic/2012/08/post-36dc.html

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