脱げぱんつ派であること、あるいは自己開示がもたらすもの
★パンツを脱ぐ決意
ツイッターを眺めていたら「脱げぱんつ派」という文字が目に入った。脱原発派でない所がミソなんだろう。うまいことを言う。
そうして、そういえば僕も脱げパンツ派だった事を思い出した。いや、割とマジで。
このことを僕に教えてくれたのは、古くからの友人だ。
「作家はパンツを脱がなければならない」
というのが彼の口癖だった。
作家、は「あらゆる表現者」に言い換えてもよい。当の本人はひたすら8ミリ映画を作っていた。
監督としての腕はプロ級だったので(実際、今はプロの演出家になっている)、ベタに自分のことだけを描いていた訳ではない。でも、物語の底流には彼自身のドロドロしたものが色濃く反映されていた。
何かを物語る時は、直接または間接に自分の恥ずかしい部分を晒さなければ、絶対にいい作品にならない。それが彼が自分に課しているテーマだった。
当時僕は創作とは全く縁遠く、彼の口癖を聞いても「ふーん、何かを創りだすのは大変だよね」としか思っていなかった。
それから15年、思わぬ流れから「反常識の業務改革ドキュメント」の前身「プロジェクトファシリテーション」を書くことになった。普通の人は本なんて書いたことがない。僕も当時はブログをやっていなかったので、長い文章を書く習慣がなかった。
共著者の関さんと共に手探りで書き進めてから半年ほどが経ち、いつもの様に原稿を読み返していた時、不意に「作家はパンツを脱がなければならない」を思い出した。
さて、僕らはちゃんとパンツを脱いでいるだろうか?
当時の原稿を見る限り、Noだった。
どんなゴールを目指したプロジェクトだったのか。どうやって計画を練ったのか。どんな人が参加していたのか・・。
そういったことを小奇麗にまとめた本なんて、自分なら読みたいだろうか?その辺にあるフムフム本とどこが違うのだろうか?僕らが書く必要があるのだろうか・・・。
それ以来、本の書き方をすっかり変えた。三人称で何が起きたかを淡々と描いていたのを、クライアントである関さんとコンサルタントである僕が、二人称で交互に思いのたけを文章にぶつける形にしたのだ。
なぜか。そちらのほうが、自分をさらけ出せるからだ。つまり、パンツを脱ぐ決心をしたのだ。
かっこ悪いことも含めてありのままを、一気に書いた。方針転換してからはとても早く書けた。何しろ余計な技巧を凝らす必要がなかったのだから。
そうして書いた原稿は出版社からOKをもらい、ほとんど直されずにそのまま本として世に出た。朝日新聞の書評に取り上げられたりして、よく売れた。
恩人である旧友にはもちろん1冊プレゼントした。
★プロジェクトにおける自己開示
さて、別な意味での「脱げぱんつ派」についても書いておこう。
僕は普段、混成部隊を1つのプロジェクトチームにまとめる仕事をしている。
混成部隊というのは、会社で言えば、5社とか10社とかから人が来ているということだ。業務改革の対象となる当の会社からも、沢山の部署からエースの方が集められている。
そういう状態で1つになるための必要条件は、みんなが徹底的にオープンになることだ。「こちら側の事情」を腹に隠し持っている相手とは、利害関係を越えて問題解決にあたろう、というチームにはなれないからだ。
そいういう事情もあり、また、元々の性格のこともあり、僕は仕事をしている時はとてもオープンだと思う。もう少しストレートに言えば「ぶっちゃけ」である。
うまくいかないと思えばそう言うし、不愉快なときには不愉快だと言う(別の会社であっても)。
そうやって、日々の議論で裏表ない言動をずっと続けていくことでしか、良いチームは作れない。
自分がオープンであることだけでなく、みんなが自己開示できるような仕掛けもプロジェクトに持ち込む。例えば・・
A) ノーミング
仕事を始める時に、自分がどんな人間か、何をこのプロジェクトで成し遂げたいかについて話をする。特にオススメなのが、各人の弱点をちゃんと共有することだ。自己開示し合えば、お互い気遣いあえる。そこまで踏み込んで話せば、今後、話にくいことなんてなくなる。
B) アイスブレーカー
会議の最初にちょっとしたゲームやトークをして、場を和ませることが多い。アイスブレーカーと呼ぶ。
色々な趣向があるが、「これまで一番キツかった仕事は?」みたいなテーマを1人づつ簡単に話してもらうこともよくやる。テーマが重すぎる様なら「小学生の時に好きだったアイスは?」とかでもいい(意外と地方色が出て面白い)。
自分自身の事を少しずつ開示していくことで、なぜかチームが1つになっていく。
ということで、「脱げぱんつ派」にみんながなることは、プロジェクトでも大事ですよ、というのが今日言いたいことだ。
★参考過去記事