どこまで「偽装」と追い詰め、どこまで「許容」して、どこまで「楽しむ」のか
三連休が明けて、さわやかな朝です。最高気温が18度ということで、そろそろ服装に悩みそうな。昼間はそこそこ上がるし、でも夜になると冷え込み始めますしね。
さて、ここのところ、食品の偽装問題がクローズアップされていますね。ホテルやレストラン、意外なお店まで偽装で取り上げられています。地鶏と言いながら違っていたとか、どこどこ産の牛肉と言いながら、海外の牛肉を使っていたとか、中にはアレルギーの人には本物を、そうでない人には、というかなり意図的なものもあるようです。
僕自身、自分の舌に自信がないので、そう言われると美味しく感じますし、そんなものかなと悠長に構えている次第。
そうは言っても、希少品だからということでお金を支払っていたつもりの人にとっては大問題。人によってお目当ては違うわけで、どうしてもそれを食べたくて来たのに、違うものを出されていたということになると、味がわかったとか分からないということではなく、問題視するのは当然でしょう。
昨日、フェイスブックだか、ツイッターだかで興味深い投稿を見かけました。どこに行ったか分からないのでソースがないのですが、内容はこういうことです。
「おふくろの味と言いながら独身女性が作っていたら、それも違うのだろう」
なるほど、たしかに「おふくろの味」の「おふくろ」というのは母親のことであって、独身女性のことではありません。ここまで来ると「いやいや、そこまで」と思うのが普通でしょうけれど、そうなるとどこで線を引くのか、という議論になりますね。
人によって許容範囲は違うのだと思います。おふくろの味とかになると、食材や調理方法というよりは、お店の雰囲気を楽しんでいるのかも知れませんし、あるいは自分の出身地方の味付けが喜ばれているのかも知れません。また、その年代の女性がいて、その人との会話が楽しみなのかも。
食品の偽装、すり替えと一緒くたにしてはいけないのですが、人によって許容範囲は全然違うのだろうなあ、と思ったり。細かく言い始めると「カニ食べ放題」と書いていながら、生物学上はザリガニの仲間であるタラバガニはダメなんじゃないか、とか、僕にとってはよく分からないお話になっていくのかも知れません。
「自分が許容出来るのなら、世間が何を言おうといいじゃない。」「オレは楽しめているんだから」という、個人の意見が大事なのかなあ、なんて感じた週明けです。今朝Kindleで発売の堀江貴文さんの本を読みながら、もっと自分に素直に、なんて思いながら。