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人材育成の現場で見聞きしたあれやこれやを徒然なるままに。

子どもはなんでも自分でやってみたくて、オトナはなんとかして他人にやらせたい。

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甥っ子(2歳4か月)、かなり語彙が増えて、会話もどきができるようになりました。否定文、疑問文、自問自答の疑問文など、バリエーションが。(妹からほぼ毎日、動画や写真が送られてくるので、成長と発達の様子はリアルタイムに垣間見ることができます)

近々一緒に遊んでもらう予定なので、久々に逢うのが楽しみです。

さて、この2年ちょい、彼をそばでずーっと見守ってきて、気づいたこと。

「子供はなんでも自分でやってみたい!」そして、「挑戦するし、失敗してもめげない」ついには、「挑戦している内にかなり短期間にできるようになってしまう」

「できない」→「やってみたい」→「挑戦する」→「失敗するがめげない」→「挑戦を繰り返す、あきらめない」→「いつの間にかできるようになる」→「次にできないことを見つける」→「やってみたい」→・・・この繰り返し。

「できない」→「やってみたい」→「挑戦する」。このプロセスでは、「ボクができるようになりたい」「ボクがやりたい」という好奇心だけに支えられているように見えます。内発的に動機づけされているのですね。

一方で、オトナはどうだろう?

「できない」→「やりたくない」
「できない」→「誰かがやってくれればいいのに」
「できない」→「気づかなかったふりをしよう、その内誰かがやるだろう」

という反応を示すこともあるような。

厄介ごとが降りかかってきそうになった時、やり方がわからない仕事がやってきた時、「うーん、これ、誰かやってくんないかな?」「○○さんがやればいいのに」と、なんとかして、自分の半径1メートルより外のその仕事を追いやろうとする。


誰もが幼い時、「できない」けど、「やってみたい」から「挑戦してみよう」という思考を持っていたはずなのに、歳を重ねている内に「ま、いいや」と自分で限界を決めたり、「自分」ではない「誰か」にやってもらいたい、やってくれるなら助かるのにな、と思うようになってしまったりすることもあるような・・・。

まあ、2歳児の好奇心や冒険心や挑戦心は、彼らにまだ”社会”がないからこそのこと、かも知れません。

誰かに反対されることもないし、メンドクサイ調整ごとがあるわけでもないし、役割だの地位だののしがらみもない。だから、2歳児とオトナを単純比較してもしょーがないとも言えます。

でも、だけど、
誰もが持っていたに違いない「なんでも自分でやってみたい」というキモチを、どこかに置き去りにしてきたままでいいのかな?とも思うのです。

オトナだって、「なんとか他人にやってもらおう」と思うばかりではなく、「なんでも自分でやってみたい」というキモチ、たまには持ってみてもいいのかも。

「いつまで経っても、子供だよね」というのは、揶揄する際に使う言葉ですが、好奇心や冒険心、挑戦心という文脈で言えば、「いつまで経っても、子供」であることも時に必要なのではないかしら?

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